ルイス・アルヴェス・デ・リマ・エ・シルヴァ (カシアス公爵)
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カシアス公爵ルイス・アルヴェス・デ・リマ・エ・シルヴァ(ポルトガル語: Luís Alves de Lima e Silva, Duque de Caxias, IPA: [kaˈʃiɐs][1]、1803年8月25日 - 1880年5月7日)は、ブラジル帝国の軍人、王党派政治家。「仲裁者」[2]や「鉄公爵」[3]とあだ名される。父のフランシスコ・デ・リマ・エ・シルヴァ(ポルトガル語版)やおじのジョゼ・ジョアキン・デ・リマ・エ・シルヴァ(ポルトガル語版)と同じく軍人の道を歩み、1823年には若い士官としてブラジル独立戦争でポルトガルと戦い、続くシスプラティーナ戦争では南部のシスプラチナ州で分離主義者と3年間戦った。1831年の皇帝ペドロ1世に対する抗議では父とおじがペドロ1世を批判したのに対し、カシアスはペドロ1世を支持した。その後、ペドロ1世はわずか5歳の息子ペドロ2世に譲位したが、カシアスはペドロ2世に剣術と馬術を教え、ペドロ2世の信頼を得た。
カシアス公爵 ルイス・アルヴェス・デ・リマ・エ・シルヴァ Luís Alves de Lima e Silva, Duque de Caxias | |
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カシアス公爵の肖像写真、1878年 | |
生年月日 | 1803年8月25日 |
出生地 | ブラジル副王領、リオデジャネイロ州、サン・パウロ農場(現ドゥケ・デ・カシアス) |
没年月日 | 1880年5月7日 (76歳没) |
死没地 | ブラジル帝国、リオデジャネイロ州、サンタ・モニカ農場(Santa Mônica) |
出身校 |
聖ジョアキン学校(英語版) 王立軍事アカデミー(英語版) |
前職 | 陸軍軍人 |
所属政党 | 保守党(英語版) |
称号 |
陸軍元帥(英語版) 仲裁者、鉄公爵(別称) 南十字勲章大十字章 ばら勲章大十字章 ペドロ1世勲章大十字章 他 |
配偶者 | アナ・ルイサ・デ・ロレト・カルネイロ・ヴィアナ |
サイン | |
閣僚評議会議長(首相) | |
在任期間 |
1856年9月3日 - 1857年5月4日 1861年3月2日 - 1862年5月24日 1875年6月25日 - 1878年1月5日 |
皇帝 | ペドロ2世 |
在任期間 |
1855年6月14日 - 1857年5月4日 1861年3月2日 - 1862年5月24日 1875年6月25日 - 1878年1月5日 |
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ペドロ2世の幼少期、ブラジルを統治した摂政(ポルトガル語版)たちは無数の反乱に直面した。今度も反乱軍に同情的な父などの親族と違い、1839年から1845年まで王党派の軍勢を率いてバライアダ(英語版)、1842年自由主義反乱(英語版)、ファラーポス戦争(英語版)を次々と鎮圧した。1851年、カシアスはブラジル軍を率いてラプラタ戦争でアルゼンチン連合に勝利した。そのおよそ10年後にはパラグアイ戦争で元帥としてブラジル軍を勝利に導いた。カシアスは褒賞としてブラジル貴族(英語版)に叙された。彼は1841年に男爵、1845年に伯爵、1852年に侯爵、そして1869年には公爵に叙され、ペドロ2世が統治した58年間においてブラジルの公爵に叙された唯一の人物になった。
1840年代初期、カシアスは反動党に加入、1846年に上院議員に当選した。反動党はその後「秩序党」、ついで保守党(英語版)に改名された。ペドロ2世は1856年にカシアスを閣僚評議会議長(英語版)(首相)に任命した。カシアスは1861年に再び首相に短期間就任したが、保守党が議会で少数派に陥ったことで首相の位を追われた。その後の数十年にわたり、カシアスは保守党の台頭と頂点、そして内部分裂による衰退を経歴した。1875年には三たび首相に就任した。カシアスは健康の悪化により1880年5月に死去した。
死後、特に帝政が崩壊した後、カシアスの名声はエルヴァル侯爵(英語版)のそれより低かった。その後は再評価が進み、1925年にはカシアスの誕生日がブラジル軍を記念する兵士の日(ポルトガル語版)に指定された。1962年3月13日にはカシアスがブラジル軍の伝統の代表者として、軍の保護者と定められた。歴史家はカシアスを評価し、一部はブラジル軍で最高の軍人という評価を下した。