シュヴァーベン公国
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シュヴァーベン公国(英: Duchy of Swabia, 独: Herzogtum Schwaben)は、中世ドイツにおける部族大公国の一つであり、それゆえに最も有力な諸侯国の一つであった。
シュヴァーベンの名はゲルマン民族の一派であるスエビ族に由来し、その名は中世盛期の部族大公領が拡張している時代にはアラマンニ(英語版)に置き換えて使われることもあった[1]。ライン川とドナウ川の隅にいたスエビ族に他の部族たちが加わることによって、11世紀頃までには、アラマンニが転訛してアレマン人と呼ばれるようになったが、この頃にシュヴァーベンの語形が普及し始めた。
917年にブルカルト2世(ドイツ語版)によって公国の誕生が宣言された。ブルカルト2世は東フランク王コンラート1世若王と同盟を結んで、915年のヴァーフルヴィーブスの戦いにてアラマンニの支配を巡って争っていた敵対者を破った。
シュヴァーベンを支配した最も有名な一族がホーエンシュタウフェン家であり、同公国を短い中断期を挟んで1079年から1268年にかけて支配した。ホーエンシュタウフェン時代を通じてほとんどの間、同家は神聖ローマ皇帝を兼ねていた。
公国は1268年に最後の公であるコンラディンが処刑されるまで存続していた。ローマ王ルドルフ1世は1273年にシュヴァーベン公の称号を復活せんとして末子のルドルフ2世に授け、そのルドルフ2世は息子のヨーハン・パリツィーダに継承させた。1312年か1313年にヨーハンが後継者を残すことなく没したことで"復活した"称号は終焉を迎えることとなった。