シャー・ジャハーン
ムガル帝国の第5代君主 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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シャー・ジャハーン(ペルシア語: شهابالدین محمد شاه جهان Shehābo'd-Dīn Moḥammad Shāh Jahān, 1592年1月5日 - 1666年1月22日)は、ムガル帝国の第5代君主(在位:1628年 - 1658年)。第4代君主ジャハーンギールの三男。母はビルキース・マカーニー・ベーグム。
シャー・ジャハーン شهابالدین محمد شاه جهان | |
---|---|
ムガル皇帝 | |
シャー・ジャハーン | |
在位 | 1628年1月30日 - 1658年7月31日 |
戴冠式 | 1658年2月14日 |
別号 | パードシャー |
全名 | シハーブッディーン・ムハンマド・フッラム(シャー・ジャハーン) |
出生 |
1592年1月5日 ラホール |
死去 |
1666年2月1日(74歳没) アーグラ、アーグラ城 |
埋葬 | タージ・マハル |
配偶者 | ムムターズ・マハル |
ほか | |
子女 |
ダーラー・シコー シャー・シュジャー アウラングゼーブ ムラード・バフシュ ジャハーナーラー・ベーグム ラウシャナーラー・ベーグム ガウハーラーラー・ベーグム ほか |
王朝 | ムガル朝(ティムール朝) |
父親 | ジャハーンギール |
母親 | ビルキース・マカーニー・ベーグム |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
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1612年、ペルシア系の大貴族アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。
1628年はじめにアーグラで即位したシャー・ジャハーンは、内政面ではムガル帝国の最安定期を演出した。外部では1636年にアフマドナガルにあったデカン・スルターン朝のひとつアフマドナガル王国を打倒・併合し、デカン地方で領土を拡大した。だが、アフガニスタンではサファヴィー朝と衝突してムガル・サファヴィー戦争を起こしたが、カンダハールを獲得することができなかった。
シャー・ジャハーンの時代はインド・イスラーム文化の最盛期であり、美術や建築などの華が咲いた。シャー・ジャハーンはまた、妃ムムターズ・マハルの墓廟であるタージ・マハルの建造者としても有名な人物である。当時、ヨーロッパから訪れた旅行者はシャー・ジャハーンを「壮麗王」(the Magnificent)として称えた。
ムムターズ・マハルの死後、シャー・ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった[1]。シャー・ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった[1]。
シャー・ジャハーンは長男ダーラー・シコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守シャー・シュジャー、三男のデカン太守アウラングゼーブ、四男のグジャラート太守ムラード・バフシュはこれを認めていなかった。結局、1658年に勝利したアウラングゼーブが皇位を継承し、シャー・ジャハーンはアーグラ城塞に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ・マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。