ガリポリの戦い
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ガリポリの戦い(ガリポリのたたかい、英語: The Gallipoli Campaign、トルコ語: Çanakkale Muharebeleri[7])は、第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指し、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたるダーダネルス海峡の西側のガリポリ半島(現・トルコ領ゲリボル半島)に対して行った上陸作戦。ガリポリ半島とは英語名であり、現在トルコ語でゲリボル半島と呼ばれている。また、ガリポリ(ゲリボル)の町は半島の付け根にあり、主戦場から外れている。イギリスではこの戦いをダーダネルス戦役(英語版)と、トルコではチャナッカレの戦い(トルコ語: Çanakkale Savaşı)と呼ぶ。
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概要 ガリポリの戦い, 交戦勢力 ...
ガリポリの戦い | |
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3月18日の海戦(左) / 協商軍の最初の上陸(右) | |
戦争:第一次世界大戦 | |
年月日:1915年2月19日 - 1916年1月9日 | |
場所:ダーダネルス海峡 ガリポリ半島 | |
結果:オスマン帝国軍の勝利(協商軍の撤退) | |
交戦勢力 | |
オスマン帝国 ドイツ帝国 オーストリア=ハンガリー帝国 |
イギリス フランス共和国 オーストラリア ニュージーランド イギリス領インド帝国 カナダ ニューファンドランド |
指導者・指揮官 | |
ザンデルス・パシャ元帥 エサト・パシャ准将 ヴェヒプ・パシャ准将 ジェヴァート・パシャ准将 ムスタファ・ケマル・ベイ |
イアン・ハミルトン(英語版)大将 サックヴィル・カーデン(英語版)提督 ジョン・デ・ロベック(英語版)提督 エミール・ゲプラット(英語版)提督 |
戦力 | |
6個師団(当初) 16個師団(最大)
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5個師団(当初) 15 個師団(最大) 合計: 489,000[4]
その他 |
損害 | |
オスマン帝国 死者56,643 負傷者97,007 行方不明者、捕虜11,178 病気による撤退69,440[6] 戦病死21,000 [4] 合計250,000 |
イギリス 死傷者160,790 戦病死3,778以上 病気による撤退90,000[4] フランス 死傷者27,169 戦病死 不明 病気による撤退20,000 合計302,000 |
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当時国家として末期状態であったオスマン帝国軍を軽んじた連合軍は短期決戦を想定して挑んだ。しかし、のちに新生トルコ共和国の初代大統領に就任することになるオスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクの活躍をはじめ、敵の予想外の頑強な抵抗に遭った連合軍は多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わった。この戦いは陸・海・空三軍の総力を結集した大規模上陸作戦としては世界初と言える。また連合国軍に参加したオーストラリアとニュージーランドにとっては初の本格的な海外遠征となった。