ヨークタウン方面作戦
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ヨークタウン方面作戦(英: Yorktown campaign、あるいはバージニア方面作戦、英: Virginia campaign)は、アメリカ独立戦争中の1781年10月に戦争全体の行く末を決するヨークタウン包囲戦に凝縮されることになった一連の軍事行動と戦闘のことである。この作戦の結果イギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍が降伏し、その結果本格的な和平交渉が始まり、最終的には終戦に結びついた。この作戦はイギリス軍指導層の不一致、決断力の無さおよび意思の疎通に欠けたことが特徴であり、またフランス・アメリカ連合軍においては命令違反の場合にも協調的な決断が下されたことが特徴である。
ヨークタウン方面作戦 Philadelphia campaign | |
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『コーンウォリス卿の降伏』ジョン・トランブル画、油彩、1820年 イギリス軍(中央)のフランス(左)とアメリカ(右)に対する降伏を描いている。 | |
戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1781年1月 - 10月 | |
場所:主にバージニア | |
結果:フランス、アメリカ連合軍の決定的勝利 | |
交戦勢力 | |
アメリカ合衆国大陸軍 フランスフランス軍 |
グレートブリテン イギリス軍 アンスバッハ=バイロイト ヘッセン=カッセル |
指導者・指揮官 | |
ジョージ・ワシントン ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー |
ヘンリー・クリントン チャールズ・コーンウォリス(捕虜) |
戦力 | |
大陸軍: 5,500、大砲60門 フランス陸軍: 9,500、大砲90門 |
コーンウォリスの陸軍: 7,000 |
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この作戦にはイギリスとフランスの陸海軍およびアメリカの陸軍が関わった。イギリス軍は1781年1月から4月にかけてバージニアに派遣され、5月には南部諸州で拡大された戦線から北上してきたコーンウォリス軍と合流した。当初これらに対抗するのはバージニアの民兵隊のみであり、イギリス軍に歯が立たなかったが、ジョージ・ワシントンは先ずラファイエット、続いてアンソニー・ウェインに大陸軍を付けて南部に派遣し、イギリス軍が引き起こしていた襲撃や経済破壊に対抗させた。しかし、これら大陸軍部隊は合流したイギリス軍部隊に対抗するには数の上で不十分だった。この時点でイギリス軍北アメリカ総司令官ヘンリー・クリントンから一連の混乱させられるような命令が届き(この命令については後に議論を呼んだ)、コーンウォリスは7月にヨークタウンに移動して、当面向き合っていた敵陸軍に対しては強力な防御陣地を構築した。ただし、海軍による封鎖や包囲に対しては脆弱だった。
北アメリカと西インド諸島のイギリス海軍部隊はフランスとスペインの海軍を合わせた戦力より弱く、イギリス海軍指揮官による重要な判断と戦術的誤りが犯された後、フランソワ・ド・グラス提督が率いるフランス艦隊はチェサピーク湾の支配権を獲得し、コーンウォリス軍が海からの支援を受けられないようにした上に、陸上に包囲戦を布く部隊を送り届けた。イギリス海軍はこの支配権を奪おうとしたが、9月5日に行われた重要なチェサピーク湾の海戦でトマス・グレイブス提督の艦隊が敗れた。ニューヨーク市郊外に集結したアメリカ、フランス両地区軍は8月下旬に南部への移動を始め、9月半ばにはヨークタウン近くに到着した。その動きに関しては偽装を行っていたことで、クリントンがコーンウォリスに援軍を送るタイミングを遅らせることができた。
ヨークタウン包囲戦は9月28日に始まった。おそらく包囲を短くさせる手段としてコーンウォリスは外郭部の防御の一部を放棄し、包囲する側はその堡塁の2つに殺到した。コーンウォリスは自軍の位置付けが耐え難いものになっていることが明らかになったとき、10月17日に交渉を始め、その2日後に降伏した。この報せがロンドンに届くと、フレデリック・ノース政権が失脚し、これを次いだロッキンガム政権が和平交渉に入った。これが最終的に1783年のパリ条約となり、国王ジョージ3世はアメリカ合衆国の独立を認めた。クリントンとコーンウォリスはこの作戦における各自の役割を弁護するために公開論争に突入し、イギリス海軍の指揮官層もこの敗北に繋がった海軍の欠点について論じた。
「 | もしこれら偶然のできごとが前もっての手配と予謀の結果だったとすれば、軍事史に並ぶもののない統率力を表したことになる。 | 」 |
— 歴史家ポール・アレン[4] |