ガザラの戦い
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ガザラの戦い(ガザラのたたかい、英: Battle of Gazala)は、 第二次世界大戦中の北アフリカ戦線におけるリビアのトブルクをめぐり1942年5月26日から6月21日にかけて枢軸国軍と連合国軍との間で行われた戦闘である。
ガザラの戦い | |
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1942年1月21日から7月7日までの北アフリカにおけるロンメルの第二次攻勢 | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1942年5月26日から6月21日 | |
場所:ガザラ(トブルク近郊)、イタリア王国領リビア | |
結果:枢軸国軍の勝利[* 1] | |
交戦勢力 | |
ドイツ国 イタリア王国 |
イギリス イギリス領インド 南アフリカ連邦 自由フランス ポーランド |
指導者・指揮官 | |
エルヴィン・ロンメル | クロード・オーキンレック ニール・リッチー |
戦力 | |
兵士 90,000[4] 戦車 560[5] |
兵士 110,000[4] 戦車 843[5] |
損害 | |
戦死・戦傷・捕虜 32,000[要出典] 戦車 114[要出典] |
戦死・戦傷・捕虜 50,000[6] 戦車 1188[7] |
枢軸国軍の戦力はアフリカ装甲軍でドイツ軍とイタリア軍の部隊により構成され、砂漠のキツネと称されることとなった当時上級大将のエルヴィン・ロンメルが指揮をとった。対する連合国軍の戦力は、イギリス及びイギリス連邦諸国軍(以下「イギリス軍」と表記)を中心とする中東方面軍[* 2] (en) 総司令官クロード・オーキンレック大将の指揮下にニール・リッチー中将のイギリス第8軍(en)で、この双方による戦闘であった。ロンメルは連合国軍の築いたガザラ(英語版)から南方のビル・ハケイム(英語版)まで伸びる防衛線正面への偽装攻撃を行いながら、装甲部隊を防衛線の南から迂回させ、その背後のイギリス軍装甲部隊を攻撃するために進出した[8]。この攻撃は成功したかに見えたが、連合国軍の「ガザラ・ライン」の南端にあるビル・ハケイムでは、自由フランス軍の頑強な抵抗により物資の補給がままならなくなり、ロンメルの戦車部隊は燃料と弾薬が欠乏し、かえって不利な立場に置かれることになった。しかしながら、リッチーの第8軍はこの状況への対応が遅れ、ロンメルは「ガザラ・ライン」の中央、ビル・ハケイムの北方に補給路を開くため、西へ向かい戦力を集中して攻撃を加えた。戦闘は戦車を多く犠牲にしながらも枢軸国軍の勝利に終わった。しかし、その後の戦いにおいて重要な役割を果たすべき機甲部隊が損耗してしまい、エジプトへ退却した第8軍に決定的な打撃を与えることができなかった[* 3]。このため、ロンメルの追撃は、エル・アラメイン手前で停止し、その後第一次エル・アラメインの戦いが始まることとなった。