ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン
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ファビアン・ゴットリープ・タッデーウス・フォン・ベリングスハウゼン (ロシア語: Фабиан Готтлиб Таддеус фон Беллинсгаузен1778年8月18日(ユリウス暦 8月9日) – 1852年1月25日(ユリウス暦 1月13日); ロシア語: Фаддей Фаддеевич Беллинсгаузен, ファッデイ・ファッデーイヴィッチ・ベリンスガウゼン) は、ロシア帝国海軍バルト・ドイツ人士官、地図製作者、探検家、最終的に提督へと昇進した。ロシア最初の世界周航参加者であり、その後、艦長として新たに行われた世界周航で南極大陸を発見し、最初に南極を発見した候補の一人となった。
ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン ロシア語: Фабиан Готтлиб фон Беллинсгаузен | |
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生誕 |
1778年8月18日(8月9日) ロシア帝国エストニア県サーレマー島Lahetaguse (エストニアサーレ県Salme Parish) |
死没 |
1852年1月25日 ロシア帝国クロンシュタット |
所属組織 | ロシア帝国海軍 |
軍歴 | 1795–1852 |
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バルチック艦隊で軍務を開始、頭角を現した後、1803年から1806年にかけてロシア最初の世界周航 (First Russian circumnavigation)に参加し、フリゲートナデジダで艦長アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンのもとで軍務を務めた。周航後、新たに探検した領域や太平洋諸島の地図集を発表した。その後、バルチックならびに黒海艦隊で数隻の軍艦を指揮した。
有能なる地図製作者であったベリングスハウゼンは1819年から1821年にかけて行われる世界周航の采配を振るよう任命された。南極海を探検する目的だったが、南極点の近くで陸地を発見した。遠征隊はベリングスハウゼンの副将としてスループミルヌイの艦長だったミハイル・ラザレフ (Mikhail Lazarev)によって準備されたと同時にベリングスハウゼン自身はスループヴォストークの艦長になった。遠征中にベリングスハウゼンとラザレフは1820年1月28日(新暦)に南極の陸地を発見した最初の探検家となった。彼らは2度にわたり大陸を周航し、互いに見失わなかった。かれらは南部の氷原に陸地を見つけることは不可能であったというキャプテン・クックの主張に対して反証した。遠征隊はピョートル1世島、ザボドフスキー島、レスコフ島、ビソコイ島 (Visokoi Island)、南極半島、アレクサンドル1世島などを発見、命名した、そしてまた、太平洋の熱帯海域に複数の発見をした。
准提督として復帰、1828から1829年にかけて露土戦争に参加した。海軍中将に昇進し、1830年代に再びバルチック艦隊に務め、1839年からクロンシュタット軍事総督を務めていたところで亡くなった。 1831年、著作名「2回の南極海調査と世界一周航海」(ロシア語: Двукратные изыскания в южнополярном океане и плавание вокруг света)と題された南極航海の著作を発表した。
ベリングスハウゼンの栄誉をたたえて名付けられた複数の地理上所在地があり、南極地探検で彼が果たした任務を偲ばせ、ロシアないしは世界において最も偉大な提督、探検家の一人であったと記憶されている。