薩英戦争
江戸時代末期、薩摩藩と大英帝国の間で勃発した戦争 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年7月2日 – 4日〈新暦: 1863年8月15日 – 17日〉)は、薩摩藩と大英帝国 (イギリス[注釈 3])の間で起こった戦闘である。文久2年8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。
概要 薩英戦争, 交戦勢力 ...
薩英戦争 | |
---|---|
戦争:薩英戦争 | |
年月日:1863年[1]8月15日 - 8月17日 | |
場所:江戸幕府・薩摩国(鹿児島湾) | |
結果:幕府が生麦事件の遺族への扶助料を支払い講和。 | |
交戦勢力 | |
薩摩藩 | イギリス帝国 |
指導者・指揮官 | |
島津茂久 島津久光 |
パーマストン ラッセル キューパー |
戦力 | |
薩摩藩 | イギリス海軍 |
損害 | |
砲台の戦死5名[2][3] 負傷者9名[4] 大砲8門[5] 藩汽船3隻焼失[6] 市街の死傷者9人[7] 英国の砲撃の結果として殺された民間人の数は不明。 |
戦死13名[3][5] 負傷者50名[3][5] 負傷者の死亡7人[8] 艦船大破1隻[3] 中破2隻[3] |
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薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。
イギリスではこの戦闘を単に「Bombardment of Kagoshima」(鹿児島砲撃)と呼ばれている。鹿児島では城下町付近の海浜が「前の浜」と呼ばれていたため、まえんはまいっさ(前の浜戦)と呼ばれる[9]。