第二次内乱 (イスラーム史)
カルバラーの惨劇(680年)からイブン・ズバイルの乱の平定(692年)までのイスラーム教ウンマの分裂状態をいう。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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第二次内乱(だいにじないらん、英語: Second Fitna、アラビア語: الفتنة الثانية)[注 2]は、ウマイヤ朝時代の初期に起こったイスラーム共同体(ウンマ)の全面的な政治的、軍事的混乱と一連の紛争が続いた時代を指す。この内乱における主要な出来事はウマイヤ朝に対する二つの反乱とその鎮圧である。一つはウマイヤ朝によるフサイン・ブン・アリーの殺害に対する復讐を求めてスライマーン・ブン・スラド(英語版)とムフタール・アッ=サカフィーがイラクで起こした反乱、もう一つはウマイヤ朝に対抗してメッカでカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの反乱である[6][7]。
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内乱の起源はイスラーム共同体における最初の内乱である第一次内乱(英語版)の時にさかのぼる。第3代の正統カリフであるウスマーン・ブン・アッファーンの暗殺後、イスラーム共同体は指導者の地位をめぐり、イスラームの開祖ムハンマドの従兄弟で娘婿のアリー・ブン・アビー・ターリブと、シリアの総督でウマイヤ家出身のムアーウィヤとの間で最初の内乱を経験した。661年にアリーが暗殺され、同年にアリーの息子で後継者のハサン・ブン・アリーがムアーウィヤと和平を結んでカリフの地位を放棄したことで、ムアーウィヤがイスラーム共同体の唯一の支配者となった。しかし、自分の息子であるヤズィード(ヤズィード1世)を生前に後継者として指名するという前例のない世襲の動きに出たために多くの反発を招くことになり、ムアーウィヤの死後に後継者をめぐる緊張が急激に高まった。ハサンの同母弟のフサイン・ブン・アリーがウマイヤ朝を打倒するためにクーファのアリー家支持派の人々[注 3]から招かれたものの、フサインは680年10月にクーファに向かう途上で起こったカルバラーの戦いで少数の支持者とともにヤズィードの軍隊によって殺害された。さらに、ヤズィードの軍隊は683年8月に反乱を起こしたマディーナを襲撃して反乱の鎮圧に成功すると、そのまま進軍を続けてアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルが独立した勢力を確立していたメッカを包囲した。しかし、同年11月にヤズィードが死去するとウマイヤ朝の軍隊は撤退し、ウマイヤ朝の支配はシリアの一部を除くイスラーム国家の全域で失われた。
ほとんどの地域がウマイヤ朝に代わってメッカを本拠地とするアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルをカリフとして認める一方で、フサイン殺害への復讐を求めるアリー家支持派の運動がクーファで起こった。最初にムハンマドのサハーバ(教友)であるスライマーン・ブン・スラドの下でタッワーブーン(悔悟者たち)と呼ばれる集団がウマイヤ朝に対する反乱を起こしたが、タッワーブーンは685年1月のアイン・アル=ワルダの戦いでウマイヤ朝軍に敗れて壊滅した。その後はムフタール・アッ=サカフィーがアリー家支持派の指導者となってクーファの支配権を握った。ムフタールの軍隊は686年8月のハーズィルの戦いで大規模なウマイヤ朝軍に勝利を収めた。しかし、ムフタールはアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルと対立し、その弟のムスアブ・ブン・アッ=ズバイル(英語版)との戦いに敗れて687年4月に殺害された。そして691年にはカリフのアブドゥルマリク・ブン・マルワーンに率いられたウマイヤ朝軍がマスキンの戦いでムスアブ・ブン・アッ=ズバイルを破り、ウマイヤ朝がイラクの支配の回復に成功した。さらに、翌年にはイラクを失ったことでメッカで孤立したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを二度目となるメッカに対する包囲戦の末に戦死させ、内乱は終結した。
ウマイヤ朝の勝利によって世襲による統治がイスラーム共同体において確立されることになった。アブドゥルマリクは内乱終結後にカリフの権力の強化と軍の再編、そして官僚機構のアラブ化とイスラーム化を推進した。また、第二次内乱の出来事はイスラームにおけるメシアとマフディーの思想の登場と宗派の分裂を促すことになり、さまざまな教義が後のスンニ派とシーア派へつながる形で発展していった。