第二次アキャブ作戦
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第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)とは、1944年(昭和19年)2月に行なわれた日本陸軍による作戦。ビルマ西部海岸にある戦略的要衝・アキャブ(現在のシットウェー)攻略のために進撃してくるイギリス軍を、インド国境付近にあるビルマ・シンゼイワ(英語版)近辺で包囲殲滅し、イギリス軍反攻の初動を封殺して[9]アキャブの防衛を企図した[10]。作戦目的としてもう一つ、第15軍によるインパール作戦の企図を隠匿し、イギリス軍をこの方面に牽制しようとする陽動作戦としての性質を持っていた[11]。ここで日本軍はイギリス軍の新戦術の前に戦術的な敗北を喫し、ビルマ戦線の攻守転換点ともなったが[7]、インパール作戦の陽動という作戦目的は果たされた[1]。また、イギリス軍は日本軍の激烈な抵抗でアキャブに迫ることができず、作戦途中にインパール方面に戦力転用されたため[3]、アキャブの防衛にも成功した[12]。
概要 第二次アキャブ作戦, 交戦勢力 ...
第二次アキャブ作戦 | |
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進撃中に休憩する日本軍第55師団兵士とインド国民軍兵士 | |
戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1944年2月5日~26日 | |
場所:ビルマ・アキャブ(現在のシットウェー) | |
結果:イギリス軍の戦術的勝利だが、日本軍は作戦目的のインパール作戦の陽動と[1]アキャブの防衛に成功し[2]、イギリス軍は作戦目的は果たせず撤退[3]。 | |
交戦勢力 | |
指導者・指揮官 | |
桜井省三中将 花谷正中将 桜井徳太郎少将 |
フィリップ・クリスティソン(英語版)中将 フランク・メサーヴィ(英語版)少将 ジェフリー・チャールズ・エヴァンス(英語版)准将 |
戦力 | |
1個歩兵師団 約10,000 |
作戦当初 2個歩兵師団 1個戦車連隊 作戦末期 5個歩兵師団 1個戦車連隊 約40,000 |
損害 | |
戦死・戦傷 5,335[4] (内戦死 3,106)[5] 戦闘機16[6] 偵察機2[6] イギリス側主張[7] 遺棄死体5,000 戦闘機65 |
戦死・戦傷 7,951[4] (内戦死 3,506)[8] 戦闘機25[6] 輸送機1[6] 日本側主張[8] 遺棄死体7,557 捕虜213 戦車41 |
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