立憲民主党 (ロシア)
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立憲民主党(りっけんみんしゅとう、ロシア語: Конституционно‐демократическая партия, ラテン文字転写: Konstitutsionno‐demokraticheskaya partiya[1])は、かつて存在したロシアの自由主義政党。ロシア帝国末期の国会において有力政党として種々の改革を要求し、二月革命後の臨時政府では政権を担った。
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立憲民主党 カデット Конституционно-демократическая партия | |
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第2国会におけるカデット党員の肖像。 | |
党首 | パーヴェル・ミリュコーフ |
副党首 | ウラジーミル・ナボコフ |
成立年月日 | 1905年10月 |
解散年月日 | 1921年7月 |
本部所在地 | ロシア帝国 |
党員・党友数 |
100,000人[1] (1906年1月) |
政治的思想・立場 |
中道 - 中道左派[2] 自由主義[1] 社会自由主義[3] 立憲民主主義[1] |
機関紙 | レーチ(ロシア語版) |
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略称はカデット(каде́ты)であり、これは頭文字をとったものである[4]。また、「人民自由党」(Па́ртия Наро́дной Свобо́ды)とも称した[1][注釈 1]。「教授の党」(профессорская партия)とも呼ばれたように[7]、大学教授や弁護士、貴族などを中心とした知識人の政党だった。
1905年の第一次ロシア革命に際して歴史学者パーヴェル・ミリュコーフを指導者として設立された。その基本的な目標は議会政治と立憲君主制の実現であった。1906年にロシア帝国初となる国会選挙が行われると、多数の議席を獲得し、カデットは第一党となっている。その後、政府から弾圧されて勢力も後退し、党内では主流派と「道標派」が対立した。しかし、第4国会の超党派連合「進歩ブロック(英語版)」においては主導権を握ることに成功し、帝政政府に対する批判的姿勢を強めた。
1917年の二月革命後には、第一次臨時政府の中心となっている。第一次臨時政府の崩壊後は、社会主義政党との連立政権をつくったが、この政府は絶えず危機にさらされた。そして、最終的に十月革命によってカデットは政権与党としての立場を失った。その後、ボリシェビキ政権に弾圧され、ロシア内戦では白軍側に立って対抗するも、党幹部たちは西欧への亡命を余儀なくされた。そして、最終的に党の路線をめぐって分裂し、1921年に解党した。
「超階級」的な立場を標榜したこの党は、労働者の権利保障、女性参政権の実現、ユダヤ人差別の廃止など、当時のロシアにおいてはかなり先進的な内容の政策を掲げていた。体制に対して非妥協的な政党だったとも逆に「反革命的」な政党だったとも評されるが、いずれにせよ、カデットの構想は、当時のロシアの現実に適さない面があったと考えられている[注釈 2]。
なお、特に断りがないかぎり、以下の記述の日付はすべてユリウス暦による。