小松清廉
日本の武士、政治家 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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小松 清廉(こまつ きよかど)は、幕末から明治初期の政治家。維新の十傑の1人。旧名は肝付 兼戈(きもつき かねたけ)。通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。また明治には従四位下玄蕃頭の位階官職を与えられたため、玄蕃頭とも称された[1]。
概要 凡例小松 清廉 / 小松 帯刀, 時代 ...
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代初期 |
---|---|
生誕 | 天保6年10月14日(1835年12月3日) |
死没 | 明治3年7月20日(1870年8月16日) |
改名 | 肝付 兼戈→小松 清廉 |
別名 |
(通称)尚五郎、帯刀 (号)観瀾、香雪齋 |
墓所 | 禰寝・小松家墓所(鹿児島県日置市日吉町吉利) |
官位 | 贈従四位・玄蕃頭 |
主君 | 島津斉彬→忠義→明治天皇 |
藩 | 薩摩藩家老 |
氏族 | 肝付氏(伴氏)→小松氏(禰寝氏嫡流) |
父母 | 父:肝付兼善、母:島津久貫(又左衛門)の娘 |
兄弟 | 兼両、兼次、兼之、清廉、兼文、兼資、兼愛 |
妻 |
正室:小松近 側室:三木琴 |
子 | 清直、壽美 |
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薩摩国吉利(2,600石)領主だった薩摩藩士小松家の当主で、幕末に薩摩藩の家老に出世し藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たして明治維新の成就に貢献した。維新後には新政府で参与、総裁局顧問、外国事務局判事などの要職に任じられていたが、直後の明治3年(1870年)に世を去った[2]。
明治に入ってすぐの病死だったため、その後に明治政府で活躍した同じ薩摩出身の西郷隆盛や大久保利通の知名度に隠れがちであったが、小松家について多く記した玉里島津家史料の黎明館への寄贈により、21世紀にその事績の研究と再評価が進んだ[3]。