大セルジューク朝
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大セルジューク朝(Seljuk Empire(ペルシア語: آل سلجوق)またはGreat Seljuq Empire[1][注 1])は、オグズのキニク(英語版)部族から始まる中世盛期のトルコ系ペルシャ人(英語版)[4]のスンナ派帝国である[5]。最大で大セルジューク朝は東は西アナトリア半島とレバントからヒンドゥークシュ山脈に至り南は中央アジアからペルシア湾に至る広大な地域を支配した。
公用語 | ペルシア語 アラビア語 オグズ・テュルク語 | ||||||||||||||||||||||
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宗教 | イスラム教スンナ派(ハナフィー学派) | ||||||||||||||||||||||
首都 | ニーシャープール (1038年 - 1043年) シャフレ・レイ (1043年 - 1051年) エスファハーン (1051年 - 1118年) メルブ(東の首都) (1118年 - 1153年) ハマダーン(西の首都) (1118年 - 1194年) | ||||||||||||||||||||||
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現在 | イラン トルクメニスタン ウズベキスタン アフガニスタン カザフスタン タジキスタン キルギス 中国 トルコ アゼルバイジャン アルメニア ジョージア ロシア イラク シリア レバノン ヨルダン イスラエル パレスチナ エジプト クウェート アラブ首長国連邦 イエメン |
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- 大セルジューク朝
セルジューク帝国 - آل سلجوق (ペルシア語)
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↓ 1038年 - 1157年(1194年) ↓ (13世紀初頭にルーム・セルジューク朝とアナトリア半島のベイリクに採用された双頭の鷲)
大セルジューク朝の最大版図(1092年)
大セルジューク朝は1037年にトゥグリル・ベグ(990年 - 1063年)と兄のチャグリー・ベグ(989年 - 1060年)により建国された。アラル海に近い本拠地からセルジューク族は最初ホラーサーンに拡大し、結局バグダードを確保し東アナトリア半島を征服する前にペルシャに拡大した。ここでセルジューク族は1071年のマラズギルトの戦いに勝ち、東ローマ帝国からアナトリア半島の殆どを征服し、第1回十字軍(1095年 - 1099年)の原因の一つになった。1150年から1250年に大セルジューク朝は衰退し、1260年頃にモンゴル族に侵攻された。モンゴル族はアナトリア半島を首長国に分割した。結局その1つのオスマン帝国が残りを征服することになる。
セルジューク(英語版)は自分の名前を大セルジューク朝とセルジューク朝双方に与えた。セルジューク族は東のイスラム世界の分裂した政治情勢を統一し、第1回十字軍と第2回十字軍で主要な役割を演じた。文化[6]と言語[7]で高度にペルシャ化して(英語版)[8]、アナトリア半島にペルシャ文化を輸出さえして[9][10]トルコ系ペルシャ人の伝統(英語版)の発展にも重要な役割を演じた[11]。近隣の諸国の侵攻をかわす戦略的軍事目的で、大セルジューク朝の周辺部の西北地区のトルコ族の移住は、この地域の発展的なトルコ化(英語版)に導いた[12]。