十字軍のエジプト侵攻
エルサレム王国によるエジプトへの軍事侵攻 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
この項目では、1163年にエルサレム王国・ビザンツ帝国によって行われた、ファーティマ朝統治下のエジプトへの軍事侵攻について説明しています。 |
十字軍のエジプト遠征(じゅうじぐんのエジプトえんせい)とは、1163年から1169年にかけてエルサレム王国の主導で行われたファーティマ朝支配下のエジプトに対する軍事遠征である。当時ファーティマ朝が内部対立などにより弱体化していたため、その十字軍サイドに有利な状況を用いてレバントにおける十字軍の支配体制を強化することが目的であったとされる。
概要 十字軍のエジプト侵攻, 時 ...
十字軍のエジプト侵攻 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
十字軍中 | |||||||||
十字軍のエジプト侵攻 | |||||||||
| |||||||||
衝突した勢力 | |||||||||
エルサレム王国 コムネノス王朝ビザンツ帝国 トリポリ伯国 アンティオキア公国 ホスピタル騎士団 テンプル騎士団 キリキア・アルメニア王国 フランス人十字軍騎士 |
ファーティマ朝 ザンギー朝 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
アモーリー1世 アンドロニコス・コントステファノス(英語版) |
アーディド シャーワル ダーガム(英語版) | ||||||||
ヌールッディーン シール・クーフ サラディン |
閉じる
この戦役は、シリアを治めるムスリム政権であるザンギー朝とレバントを治める十字軍国家という2大勢力の影響下で発生したファーティマ朝の後継者問題を発端とする。ファーティマ朝の一方の勢力はシリアのムスリム統治者ヌールッディーンに支援を求め、もう一方は十字軍に支援を求めた。戦争序盤はファーティマ朝の2派閥間の戦争であったが、時間がたつにつれて征服戦争へと変化していった。ヌールッディーンは幾度となくエジプト遠征をおこなったが、エルサレム王アモーリー1世によるエジプトへの侵略遠征によって目的を果たすことなく終わっている。一方のエルサレム王国側も、数度の襲撃を除いてエジプトへの侵略は目立った結果を残すことはなかった。1169年にはビザンツ帝国と十字軍との連合軍により敢行されたダミエッタ包囲戦も失敗に終わり、同年にはサラディンがワズィールとしてエジプトでの実権を掌握するに至った。1171年、サラディンはエジプトのスルタンに就任し、十字軍は次第に対外遠征から領土防衛へと政策を切り替えざるを得ない状況に追い込まれた。十字軍はムスリムが統治するシリア地方やエジプト地方に囲まれながらも、1187年に征服される(英語版)までの約16年にわたって独立を保ち続けた。遠征後、十字軍はエジプトを脅威とみなし王国の支援を試みたものの、この支援は無駄に終わった。