利用者:Quark Logo/sandbox2清洲会議
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清洲会議(きよすかいぎ)は、安土桃山時代の天正10年6月27日(1582年7月16日)に本能寺の変後の事態収拾のために尾張清洲城で開かれた会議である[1]。清須会議の表記が使用される場合もある[2]。
織田氏の継嗣問題を巡って織田信長の次男信雄と三男信孝の同い年の兄弟が対立する中で、明智光秀を討った最大の功労者である羽柴秀吉が会議を主導し、一方で筆頭家老の柴田勝家の影響力は低下した。結局、信長の嫡孫である3歳の三法師(秀信)の家督相続を認めて、後見役に信孝を立ることに決し、家臣にそれぞれ領地を再配分して会議は幕を閉じた。しかし、ほどなくして織田家臣団は内紛を始めて、秀吉と勝家の二派閥に分かれ激しく対立した。