利用者:HWTOF/中国史下書き1
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宋金戦争とは、漢民族の王朝・宋と女真族の王朝・金との間の戦争である。
en:Jin–Song Wars 13:16, 13 April 2021 の版より翻訳のため転記。
「モンゴル・南宋戦争」とは異なります。 |
1115年、女真族は契丹(遼)の支配から独立し、金の建国を宣言した。金は当時遼に多額の歳幣を送る事となっていた宋と海上の盟を結び、遼に対抗した。金は938年(後晋建国)以来遼に奪われていた燕雲十六州を宋に返還する事を約束した。宋金両国は対遼戦争を共に戦う事になっていたが、金が快進撃で遼を滅ぼしたのに対し、宋は花石綱事件を切っ掛けとする方臘の乱の影響で大きく兵力を割かれ、宋の将軍童貫は燕京攻略を金に依頼した。金側は燕京を攻略した後、住民や財産などの全てを燕京から持ち去って返還した。宋側はその後金に対して約束した歳幣を送らず、遼の残党と友好し、金の謀反人を受け入れるなどしたため、金は宋への攻撃を決意した。1125年、金は太原と開封に進軍した。侵略開始直後、太原に駐屯していた宋側主将の童貫は金に怖気を為して部下を見捨てて逃亡したが、宋側で捕らえられて死罪となった。この金の突然の侵略により、徽宗は退位し罪己詔を発して代わって欽宗が即位した。1126年開封攻囲戦の際、欽宗は賠償金の支払いを条件に開封からの撤兵を交渉した。その後、欽宗は首都防衛よりも各県の防衛を固めた。翌年金は再び宣戦を布告し、1127年開封攻囲戦で開封を包囲した。金軍は欽宗及び趙氏(帝室)の者、宋の高官ら多くを拉致した。これが靖康の変である。僅かな宋室の者共は南へ逃れて転々とし、最終的に臨安(今杭州)へと遷都した。中華はそうして、華北の金と華中・華南の宋の2国に分かれてしまった。1130年代、女真族(金)は南征を試みたが、華北では親宋派が反乱を起こし、岳飛・韓世忠らの活躍によって逆に窮地に陥った。宋は一部の領土を奪還したものの、秦檜を始めとする和平派が南宋政府では高宗の支持を受けて拡大したため、両国は和議を結んだ(紹興の和議)。この和議により、南宋は淮河-大散関線を国境としてそれ以北を金に割譲した。またこれと同時に、金から逃れてきた秦檜を始めとする和平派が南宋政府を完全に掌握し、主戦派であった岳飛の死刑・韓世忠の免官が決まった。1161年、廃帝海陵王は南宋征伐を試みたが、采石磯の戦いで虞允文に敗れ、金側での内乱によってこの侵攻は中断され、和議が結ばれた(隆興の和議)。この時、中国初の海軍が整備されたとされる。また1206年から1208年に掛けて、金の弱体化に目を付けた韓侂冑による開禧の北伐が起こったが、宋による金征服は叶わず和議が結ばれた(嘉定の和議)。1233年、モンゴル帝国は宋と対金同盟を結び、蔡州攻囲戦で金を共同で滅ぼした。この時に自殺した哀宗の骨は臨安の宗廟に捧げられ、ここに宋は正式に宋金戦争への勝利を宣言した。しかし南宋は中原奪還を掲げて同盟に反して開封・洛陽・南京(現・商丘)の三京奪還を掲げて河南へ進軍(端平入洛)したが、モンゴル軍に壊滅的打撃を加えられた。以降の宋は宋金戦争の代わりにモンゴル・南宋戦争を戦う事となった。
宋金戦争は、中国の技術・文化・人口が急速に変化する時代を生み出した。この戦争には様々な火薬兵器の初期形態をもたらした。1132年徳安攻囲戦では、火砲の祖先である火槍の使用が記録されている。また火薬を詰めた火砲や爆発する鉄火砲や火箭(焼夷矢)が用いられるようになった。一方で女真族は華北征服後の植民の中で同化が進み。征服王朝である金の国制も中華王朝を模した官制を取り入れ、儒教思想に基づく正統性の確立に勤しんだ。中華王朝の中心地であった華北を制圧された事により宋の東アジアでの地位は低下したものの、南宋は江南の開発を進めて経済的に再興を果たし、金との商業においては優位に立っていた。首都・臨安は商業の中心都市として発展した。また開戦直後に中国の文化の中心地である華北を金に征服されたことで宋の地域的な地位は低下したものの、南宋はすぐに経済的繁栄を取り戻し、数十年にわたる戦乱にもかかわらず、金との交易は有利に行われた。南宋は江南経済の発展に支えられ、首都臨安は商業の中心都市として発展した。