丸山遊女
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丸山遊女(まるやまゆうじょ)とは、近世に長崎の丸山町と寄合町に存在した遊廓(以下、丸山と記す[1])に所属した遊女のこと。歴史的には長崎市中で太夫衆(たよし)[2]、唐人[注釈 1]はアニヤン(中国語: 阿娘)やビャウツウ(中国語: 嫖子)[4]、オランダ人はタユー(オランダ語: tajoz、「太夫」の借用語)と呼んだ[5]。
丸山は江戸幕府に公認された遊廓のひとつで、交易に訪れた異国人(1630年代までポルトガル人。のちにオランダ人・唐人。幕末にはロシア人なども加わる[注釈 2])が主たる客であった事でも知られる。そこで働く丸山遊女は、いわゆる「鎖国」体制下で例外的に異国人と会うことが許されたほか、遊郭の外での売春や自由な外出が許されたこと、遊女屋から名義を借りて異国人の愛人となる名付遊女、密貿易の片棒を担いで捕らわれる者がいたことなど、他の遊郭の遊女とは異なる特色をもっていた[7][8][9]。そして経済を貿易に依存していた長崎にとって欠かせない存在でもあった[10]。
丸山遊女について、『袖海編』を著した汪鵬は「賢く言葉も巧みで化粧も上手で衣装も美しい」と評し[11]、『日本誌』を著したエンゲルベルト・ケンペルは「京の遊女に次いで美しく、芸事のほか相当の教養も積んでいるので年季が明けると一般社会でも一人前として扱われる」と記した[12][13]。また丸山遊女がもつエキゾチックな雰囲気や異国人との交わりなどは日本人にも好奇の対象とされ、春画などで好まれる題材となった[7][8]。
名が知られる人物に、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの間に楠本イネをもうけた其扇(楠本たき)や、ヤン・コック・ブロンホフからラクダを贈られた糸萩、諏訪神社に舞を奉納した音羽と高尾(長崎くんちの始まり)などがいる。