ローマ爆撃
第二次世界大戦下の戦略爆撃 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
ローマ爆撃(ローマばくげき、英: Bombing of Rome)とは、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)と1944年(昭和19年)に大多数は連合国軍の軍用機、ごく一部は枢軸国軍の軍用機により行われたローマに対する爆撃であり、1944年(昭和19年)6月4日に連合国軍によりローマが解放された。教皇ピウス12世は、大司教フランシス・スペルマンを通してアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトと交渉した末に、ローマの無防備都市宣言を行ったが失敗し、最終的に1943年8月14日(連合国の最後の爆撃の翌日)に防衛していたイタリア軍により無防備都市宣言が行われた[1]。
概要 ローマ爆撃(第二次世界大戦), 時 ...
ローマ爆撃(第二次世界大戦) | |||||||
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グスタフ・ライン(英語版) モンテ・カッシーノの戦い中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
イギリス アメリカ |
ナチス・ドイツ イタリア社会共和国 | ||||||
指揮官 | |||||||
アーサー・ハリス アーサー・テッダー(英語版) ジミー・ドーリットル ヘンリー・アーノルド |
アルベルト・ケッセルリンク レナート・サンダーリ(イタリア語版、英語版) | ||||||
被害者数 | |||||||
航空機600機が撃墜 搭乗員3,600名 |
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最初の爆撃は1943年7月19日に発生し、アメリカ陸軍航空軍(USAAF)の690機がローマ上空を飛行し9‚125発の爆弾を投下した。連合国軍の爆撃はローマのサン・ロレンツォ地区にある貨物駅と製鉄所を標的としたものだったが、同じ地区にある集合住宅が建ち並ぶ街区にも爆弾が落ち、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂が被害を受け、1,500人が死亡した。ピウス12世は、ローマに「人類全体の価値」があるとしてルーズベルトに対して爆撃しないように要請していたが、影響を受けた地区を訪問し、その際に撮影された写真がイタリアの反戦感情の象徴となった[2]。連合国反戦は1943年から1944年まで続いた。アメリカ合衆国では、メディアの大多数が爆撃を支持したが、多くのカトリック系新聞は爆撃を非難した[3]。
連合国によるローマの航空作戦における11万回の出撃で、600機が失われ、兵士3,600人が戦死した。1944年6月4日に連合国軍がローマを占領するまで、78日間で6万トンの爆弾が投下された[4]。