ロイテンの戦い
七年戦争の会戦の一つ / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ロイテンの戦い(ロイテンのたたかい、Schlacht von Leuthen)は、七年戦争中の会戦。フリードリヒ大王指揮のプロイセン軍が機動戦と地形を利用して数に勝るオーストリア(ハプスブルク君主国)軍を撃破した。先のロスバッハの戦いとあわせて軍事史上注目される戦い。この勝利により、七年戦争でのプロイセンによるシュレージエンの支配が確立された。
ロイテンの戦い | |
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青がプロイセン軍、赤がオーストリア軍。プロイセン軍は南北に展開するオーストリア軍の南側に回り込み攻撃した。 | |
戦争:七年戦争 | |
年月日:1757年12月5日 | |
場所:ロイテン(英語版) | |
結果:プロイセンの勝利 | |
交戦勢力 | |
プロイセン王国 | オーストリア大公国(ハプスブルク君主国) |
指導者・指揮官 | |
フリードリヒ2世 | カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン |
戦力 | |
36,000[1] | 65,000[1] |
損害 | |
死者 1,141 負傷者 5,118 捕虜 85 損失合計: 6,344 |
死者 3,000 負傷者 7,000 捕虜 12,000 損失合計: 22,000 |
この戦いは、プロイセン (旧オーストリア領) のシュレージエンにあるブレスラウ (現在のヴロツワフ、ポーランド) の北西10 km (6マイル) にあるロイテン (現在のポーランド、ルティニア) の町で行われた。フリードリヒは、厳しい訓練で鍛えた軍隊と地形に関する優れた知識を利用して、戦場の一方の端へ迂回し、一連の低い丘の後ろに数的不利な自軍のほとんどを集中させた。思いもよらぬオーストリア軍の側面への斜行戦術を用いた奇襲攻撃は指揮官のカール公子を当惑させ、プロイセン軍の主要な攻撃が右ではなく左にあることに気付くのに数時間を費やした。プロイセン軍は7時間以内にオーストリア軍を撃破し、その年の夏と秋の戦役でオーストリア軍が獲得してきた優位性を全て奪還した。戦いの後フリードリヒは速やかにブレスラウを包囲し、12月19~20日にブレスラウを降伏させた。
ロイテンはカール公子がオーストリア軍を指揮した最後の戦いとなった。義理の妹である女帝マリア・テレジアは彼をオーストリア領ネーデルラントの総督に移し、レオポルト・フォン・ダウンを後任の総司令官とした。この戦いはまた、ヨーロッパでのフリードリヒの疑いようのない軍事的評価を確立したものであり、間違いなく彼の最大の戦術的勝利である。11月5日のロスバッハの戦いで敗れたフランスはプロイセンとのオーストリアの戦争への参加を拒否しており、ロイテン (12月5日) の後のオーストリアは単独での戦争継続が困難となった。