モンゴルのラーンナー侵攻
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モンゴルのラーンナー侵攻(モンゴルのラーンナーしんこう)では、同時代の漢文史料上では八百媳婦国と称されていたラーンナー王国をはじめ、現在の雲南省南部からタイ王国北部にかけて存在したタイ系諸勢力に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。
概要 モンゴルのラーンナー侵攻, 時 ...
モンゴルのラーンナー侵攻 | |||||||
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13世紀の東南アジア諸国。ジョルジュ・セデスはラーンナー(青色,Lan Na)・パヤオ(水色,Phayao)・スコータイ(濃青,Sukhothai)の3国はモンゴルの侵攻に対抗するために同盟を締結していたと提唱したが、現在では疑わしいと考えられている。 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
モンゴル帝国 (大元ウルス) | ラーンナー王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
劉深 カラダイ(合剌帯) 鄭祐 | マンラーイ? | ||||||
戦力 | |||||||
20,000人 | 不明 | ||||||
被害者数 | |||||||
7-8割の損害 | 不明 |
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1253年から1254年にかけて大理国を征服したモンゴル帝国はタイ系諸勢力と接するようになったが、この方面へのモンゴル軍の進出は低調で、大元ウルスを立てたクビライの治世中には小規模な遠征軍が散発的に送り込まれるに過ぎなかった。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世の1301年には最大規模の遠征軍がラーンナーに送り込まれたものの「10人中7,8人が倒れる」大失敗に終わり、以後モンゴル軍によるラーンナー方面への大規模な軍事侵攻は見られなくなった。14世紀に入るとラーンナー王によるモンゴル皇帝への朝貢が始まり、これが明朝にまで引き継がれることとなる。
かつては「モンゴル軍による東南アジア諸国侵攻」が13世紀における「タイ系諸勢力の南下と国家樹立を促した」とする史観が通説とされていたが、近年では両者を結びつける史料的根拠に乏しいことが指摘され、モンゴルとタイ系諸勢力の関係は見直されつつある。