ポートシカゴの惨事
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ポートシカゴの惨事(ポートシカゴのさんじ、英: The Port Chicago disaster)はアメリカ合衆国・カリフォルニア州のポートシカゴ海軍兵器庫で、1944年7月17日に発生した壊滅的な爆発事故である。
概要 ポートシカゴの惨事, 時 ...
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太平洋の戦域に向かう貨物船に積み込んでいた弾薬が大爆発して、320名の水兵と民間人が死亡し、390名が負傷した。死傷者の大半は徴募されたアフリカ系アメリカ人の水兵であった。
事件1ヶ月後、相変わらず危険な状況が継続したままであることは、何百人もの水兵を弾薬を積み込むことを拒否するよう駆り立てた。この出来事は「ポートシカゴの反逆」として知られている。50名の男、通称「ポートシカゴの50人」は、反逆の罪で有罪判決を受けて、懲役刑に処された。50名の内47名は1946年1月に釈放されたが、残りの3名はさらに数ヶ月間を刑務所で過ごした。
軍法会議の期間中とその終了後も、会議の手続きの公正さと適法性について疑問の声が高まっていった[1]。世論の圧力によって米国海軍は1945年に軍法会議委員会を再招集した。法廷は有罪判決を再確認した[2]。事件をめぐり広く知れ渡った評判は、それをアフリカ系アメリカ人を対象とする人種差別に反対するアメリカ人の間で有名な訴訟事件に変えた[3]。1944年-1945年[4]のこの事故とその他の人種関連での海軍に対する抗議活動は、海軍にこれまでのあり方を変えさせて、1946年から軍における人種差別撤廃の契機となった[5]。1994年にポートシカゴ海軍兵器庫ナショナル・メモリアルがこの惨事で失われた生命に捧げられるために設立された。