ヘンリー・モーガン
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サー・ヘンリー・モーガン(Sir Henry Morgan、1635年頃 - 1688年8月25日)またはウェールズ語でハリ・モーガン(Harri Morgan)は、イングランド王国ウェールズ出身の私掠船長(バッカニア、海賊)、農園主、ジャマイカ副総督(英語版)。1660年代よりジャマイカ(英領ジャマイカ(英語版))のポート・ロイヤルを拠点に、イングランド政府から私掠免状を受けて、カリブ海や中央アメリカでのスペイン帝国の船舶や植民地を襲撃して富を蓄えた。また、それらを原資に大規模な砂糖プランテーションの運営も行った。1674年にイングランド王室からはナイト爵を与えられると共にジャマイカの副総督に任命され、海賊としては珍しい社会的成功者として生涯をベッドの上で終えた。
Henry Morgan | |
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ピーター・レリー風の肖像画(1680年作) | |
生誕 |
1635年 イングランド王国ウェールズのモンマスシャーのLlanrumney または Pencarn |
死没 |
1688年8月25日(1688-08-25)(52–53歳) ジャマイカ植民地、Lawrencefield |
海賊活動 | |
所属 | イングランド王国 |
活動期間 | 1663年-1671年 |
引退後 | ジャマイカ副総督(英語版) |
モーガンの出自はほぼ不明である。生まれは現在ウェールズの首都カーディフの一部となっているモンマスシャーの地域と言われる。その後、彼がいつ頃、どのような理由で西インド諸島に向かい、私掠船の船長となったかはわからない。初期のキャリアについては英西戦争(英語版)中の1660年代前半に英国海軍将校サー・クリストファー・ミングス(英語版)が率いた私掠船団(海賊団)の一員であったと推測される。モーガンはジャマイカ総督トマス・モディフォード(英語版)と親交を持ち、1667年にイングランドとスペインの外交関係が悪化すると、モディフォードの許可と命令を受けてスペインの輸送船や植民地を襲撃した。こうして3年間でキューバ島のプエルト・プリンシペ(カマグエイ)や、現ベネズエラのマラカイボといったスペインの主要な植民地拠点を次々と襲撃し、スペイン人を恐怖させた。一方で、イングランド人たちからはモーガンは英雄視され、これは国王チャールズ2世を含む政府や王室の有力者たちも同じであった。
1671年、モーガンはパナマ・シティを壊滅させたが、これはその前年に結ばれた講和条約(マドリード条約)に違反しているとして、スペイン当局はイングランドに処罰を求めた。1672年、イングランド当局はスペインとの外交関係に配慮して、モーガンを逮捕し、ロンドンに召喚した。しかし、目立った処罰は行われず、1674年11月にナイト爵が与えられると共にジャマイカ副総督に任命され西インド諸島に舞い戻った。ジャマイカ議会の議員も務め、現職総督の不在に伴い、生涯3度にわたり総督代行も務めたが、その政治家としての末期は現職総督との不仲により副総督を解任され、1683年までに議員も辞めさせられ、以降は不遇の時代を送った。さらには1684年に私掠船時代の元部下であったアレクサンドル・エスケメラン(英語版)が当時のモーガンの悪行について言及した回顧録を出版したため、名誉棄損裁判を起こした。このエスケメランの著作は、後世におけるモーガンの人物像に多大な影響を与えている。
晩年は友人が新総督となり、地位の回復が図られたが、不遇時代の大酒などにより健康が蝕まれており、余命幾ばくもない状態となっていた。1688年8月25日にモーガンはジャマイカで亡くなり、植民地政府は彼の国葬を決定した。モーガンに子はおらず、3つの大規模農園といった莫大な資産は妻に相続された。後世においてモーガンの生涯は脚色されてフィクションのテーマとなり、また、様々なジャンルの海賊作品にも影響を与えた[1]。