ピレネー戦争
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ピレネー戦争 (英語: War of the Pyrenees)、ルシヨン戦争 (フランス語: Guerre du Roussillon スペイン語: Guerra del Rosellón) は、第一次対仏大同盟によるフランス第一共和政に対しての戦争のうち、ピレネー山脈を前線として戦われた戦争。カタルーニャでは大戦争 (Guerra Gran)とも呼ばれる。フランス革命戦争中において、スペイン王国とポルトガル王国が共に反フランス陣営で戦った1793年から1795年にかけての戦争と位置付けることもできる。
ピレネー戦争 | |||||||
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第一次対仏大同盟中 | |||||||
パニサール峠の要塞をド・ベルガルド要塞から南方のスペインに向けて望む。やや左寄り中央にラ・ジュンケラ、中央奥にムンロッチの市街が見える。 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス |
スペイン ポルトガル エミグレ(亡命貴族・王党派) | ||||||
指揮官 | |||||||
ルイ=シャルル・ド・フレール
アンリ・フランソワ・ラボールト |
アントニオ・リカルドス
ヘント公 | ||||||
部隊 | |||||||
東部ピレネー軍 西部ピレネー軍 |
カタロニア軍 スペイン王冠領予備軍 | ||||||
被害者数 | |||||||
フランス: 戦死 6,530人 戦傷 5,921人 捕虜 5,281人 |
スペイン: 戦死 20,844人 戦傷 5,046人 捕虜 5,124人 |
ピレネー山脈の東西、フランス領のトゥーロン、海上が戦場となった。1793年、スペイン軍が東ピレネーのルシヨンに侵攻し、1794年4月までこれを占拠した。反撃に出たフランス軍はスペイン軍をカタルーニャまで押し戻し、11月に大打撃を与えた。1795年2月以降、東ピレネーの戦線は膠着状態となった。一方西ピレネーでは、1794年からフランス側の勝勢に傾いた。1795年までに、フランス軍はスペイン北東部の一部を占領するに至った。
この戦争は、少なくとも2つの残虐な面を持っていた。まずフランスの公安委員会は、反革命軍に参加してフランス軍の捕虜となったエミグレ(亡命貴族)はすべて処刑するよう命じていた。またフランス側の将軍も、戦闘に負けたり、単に派遣議員の不興を買ったりしただけでも頻繁に投獄されたり、ギロチンで処刑されたりした。この点において、東部ピレネー軍の指揮官たちや将軍たちが直面した運命は極めて不幸なものだった。