バンカーヒルの戦い
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バンカーヒルの戦い(バンカーヒルのたたかい、英: Battle of Bunker Hill)は、アメリカ独立戦争初期、ボストン包囲戦中の1775年6月17日に起こった大陸軍とイギリス軍の戦闘である。大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギリス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮を執った。この戦いは両軍の当初の目標でチャールズタウンの近くにある「バンカーヒル」という名で知られているが、主戦場は隣の山で後にBreed's Hillと呼ばれた場所である[7][8]。
バンカーヒルの戦い | |
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バンカーヒルの戦いにおけるウォーレン将軍の死(英語版) ジョン・トランブル画 | |
戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1775年6月17日 | |
場所:チャールズタウン | |
結果:イギリス軍のピュロスの勝利[1][2] | |
交戦勢力 | |
大陸軍 |
グレートブリテン王国 |
指導者・指揮官 | |
ウィリアム・プレスコット イズラエル・パットナム ジョセフ・ウォーレン † ジョン・スターク |
ウィリアム・ハウ トマス・ゲイジ ロバート・ピゴット(英語版) ヘンリー・クリントン ジェームズ・アバークロンビー † サミュエル・グレイブス(英語版) ジョン・ピトケアン † |
戦力 | |
約2,400[3] | 3,000以上[4] |
損害 | |
死者115 負傷305 捕虜30(うち20人は後に死亡) 合計: 450[5] |
戦死:士官19、兵士207 負傷:士官62、兵士766 合計: 1,054[6] |
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1775年6月13日、ボストンを包囲していた大陸軍の指導者達は、イギリス軍がボストン市内から出撃し、市を取り囲んでいて当時占領されていない丘を占領して要塞化する作戦を立案中である、と言う情報を手に入れた。これらの丘を占領すると、ボストン港はイギリス軍の支配下に入ることになる。この情報に反応してウィリアム・プレスコットの指揮する1,200名の部隊が密かにバンカーヒルとブリーズヒルを占領した。その夜、プレスコットの部隊はブリーズヒルに土盛りの堡塁を造り、チャールズタウン半島の大半にわたる、軽く防御を施した前線を築き上げた[9]。
6月17日の黎明、イギリス軍は新しい陣地の出現を関知、攻撃した。大陸軍の前線に対する攻撃ははじめの2回が大きな損失を出して撃退されたが、3回目には堡塁の大陸軍の弾薬が尽きていたためその陣地を占領することができた。大陸軍はバンカーヒルを越えてケンブリッジまで撤退、半島の支配はイギリス軍に明け渡した[10]。
戦闘はイギリスの戦術的勝利に終わったが、それはピュロスの勝利だった。というのも、イギリス軍の損害は多くの士官を含む上に大陸軍より多く、また経験不足な民兵が戦闘で正規軍に渡り合えることが証明された。そのため、この戦闘以降はイギリス軍が守備の堅い防御線への攻撃を控えるようになった。大陸軍の損害はイギリス軍のそれよりはるかに少なかったが、ジョセフ・ウォーレン将軍と本戦闘における最後の死者であるアンドリュー・マクレアリ(英語版)が含まれている[11]。戦闘後、イギリス軍のヘンリー・クリントン将軍は、「このような勝利を繰り返していたら、イギリスのアメリカ支配は終わってしまう」と日記に記している。大陸軍のイズラエル・パットナム将軍か、彼の副官のウィリアム・プレスコットか、あるいは他の誰かが「敵の目の白い所が見えるまでは撃つな」と命令したというが、この命令を誰が発したかについて歴史家の中で結論が出ていない。