ハーフィズ (ファーティマ朝カリフ)
ファーティマ朝第11代カリフ / ウィキペディア フリーな encyclopedia
アブル=マイムーン・アブドゥルマジード・ブン・ムハンマド・ブン・アル=ムスタンスィル(アラビア語: أبو الميمون عبد المجيد بن محمد بن المستنصر, ラテン文字転写: Abu'l-Maymūn ʿAbd al-Majīd b. Muḥammad b. al-Mustanṣir, 1074/5年もしくは1075/6年 - 1149年10月10日)、またはラカブでアル=ハーフィズ・リッ=ディーニッラーフ(アラビア語: الحافظ لدين الله, ラテン文字転写: al-Ḥāfiẓ li-Dīn Allāh,「神の宗教の守護者」の意)は[2][3]、第11代のファーティマ朝のカリフである(在位:1132年1月23日 - 1149年10月10日)。
ハーフィズ الحافظ لدين الله | |
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ファーティマ朝第11代カリフ | |
在位 | 1132年1月23日 - 1149年10月10日 |
出生 |
1074/5年(ヒジュラ暦467年)もしくは1075/6年(ヒジュラ暦468年) アスカロン |
死去 |
1149年10月10日 カイロ |
子女 |
ザーフィル(英語版) スライマーン(英語版) ハイダラ ハサン ユースフ(最後のファーティマ朝のカリフであるアーディドの父)[1] |
王朝 | ファーティマ朝 |
父親 | アブル=カースィム・ムハンマド |
宗教 | イスラーム教イスマーイール派 |
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1130年10月にカリフのアーミル(英語版)が後継者である幼児のタイイブ(英語版)を残して暗殺され、従兄弟のハーフィズが摂政として権力を握った。その後タイイブは殺害の可能性も含めて姿を消したが、ハーフィズの新政権はかつてのワズィール(宰相)の息子であるクタイファート(英語版)を支持する軍によって2週間も経たずに打倒された。クタイファートはハーフィズを投獄するとともに国教のイスマーイール派とファーティマ朝の廃絶を宣言し、自分自身は十二イマーム派における隠れイマームの代理人であると主張して独裁体制を敷いた。しかし、1131年12月にファーティマ朝を支持する一派によってクタイファートは暗殺され、摂政に復帰したハーフィズは1132年1月23日に自らをイスマーイール派のイマームでありカリフであると宣言した。
ハーフィズの即位はアーミルに後継者がいなかったことによるものだったが、それまでイスマーイール派のイマームとカリフの地位の継承は父から子への指名によってのみ受け継がれてきたため、これは極めて異例な即位であった。この継承はファーティマ朝の領内では概ね受け入れられたが、国外では消えたタイイブをイマームとみなす勢力による分離が起こり、イスマーイール派におけるハーフィズィー派(英語版)とタイイブ派(英語版)の分裂の原因となった。エジプトにおいてでさえハーフィズの正統性は何度も疑問視され、その治世は対外的には比較的平穏だったものの、国内では絶えず反乱と権力闘争に悩まされることになった。
ハーフィズは自身の名において統治するワズィールを任命する慣行を維持したが、軍に支持基盤を持つ強大なワズィールの権力を抑制することができず、ワズィールがカリフから独立した事実上のスルターンへ進化していく状況を食い止めることができなかった。それでも1139年にファーティマ朝の廃絶をも企てていたワズィールのリドワーン・ブン・ワラフシー(英語版)を失脚させることに成功すると、以後の10年間はワズィールを置かずに自ら選任した書記官(カーティブ)に政務を委ねた。この期間も反乱や天災が絶えなかったものの、1149年10月に死去するまでカリフの地位を維持した。しかしながら、ハーフィズの即位以前から続いていた政治的混乱によって国教のイスマーイール派と王朝の正統性は揺らぎ、ハーフィズの後継者たちは1171年にファーティマ朝が終焉を迎えるまで強力なワズィールに操られる傀儡に過ぎなくなった。