ネールウィンデンの戦い (1793年)
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ネールウィンデンの戦い(ネールウィンデンのたたかい、フランス語: Bataille de Neerwinden, 蘭: Slag bij Neerwinden)は、1793年3月18日にシャルル・フランソワ・デュムーリエ率いるフランス革命政府軍とフリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いる連合軍の間で行われた戦闘。オーストリアとオランダの連合軍は苦戦したのちフランスの突撃を全て撃退、デュムーリエは敗北を認めて撤退した。これによりオーストリア領ネーデルラントにおけるフランス軍は総崩れになり、オランダへの脅威が消え失せるとともにオーストリア領ネーデルラントは奪回された。戦闘はブリュッセルから57キロメートル東、現ベルギー領のネールウィンデン(英語版)で戦われた。
ネールウィンデンの戦い | |
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ネールウィンデンの戦い、ヨハン・ネポムク・ガイガー作、19世紀。 | |
戦争:フランス革命戦争 | |
年月日:1793年3月18日 | |
場所:オーストリア領ネーデルラント、ネールウィンデン(英語版)近く | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
ハプスブルク帝国 ネーデルラント連邦共和国 |
フランス共和国 |
指導者・指揮官 | |
フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト | シャルル・フランソワ・デュムーリエ |
戦力 | |
39,000–43,000 | 40,000–47,000 |
損害 | |
2,859–3,000 | 4,000–5,000 |
1792年11月のジュマップの戦いで勝利した後、フランス軍はオーストリア領ネーデルラントの大半を占領した。しかし、デュムーリエとフランス政府はオランダとの戦争に忙殺され、オーストリア軍をライン川西岸へ追いやることができなかった。これによりオーストリア軍は休息の時間を得、コーブルクの許で再編されて反撃を開始した。援護軍がアルデンホーフェンの戦いでコーブルクに撃退された後、デュムーリエは軍を集めて反撃した。
コーブルクはネールウィンデンで陣地を敷き、デュムーリエの攻撃を待った。連合軍は歩兵の数ではフランス軍より少なかったが、フランス軍の騎兵の2倍を有していた。激しい戦闘の後、コーブルクの軍勢はフランス軍中央部と右翼の攻撃を撃退した。フランス軍左翼が戦場から追い出されたことを知ると、デュムーリエは撤退を開始したが、この敗北でフランス軍の士気は大いに削がれ、脱走者が続出した。デュムーリエは全面敗北を避けるために交渉を行い、ネーデルラントを放棄する代わりにフランス軍を撤退することとした。直後、デュムーリエはフランス政府に対する陰謀を立てたが、それが失敗するとオーストリア軍に寝返り、フランス軍は大混乱に陥った。