ニューヨーク徴兵暴動
ウィキペディア フリーな encyclopedia
ニューヨーク徴兵暴動(ニューヨークちょうへいぼうどう、New York City draft riots)、別名にマンハッタン徴兵暴動(Manhattan draft riots)とは、南北戦争中の1863年7月13日から16日に掛けてニューヨークのロウアー・マンハッタン(ダウンタウン)で起こった暴動事件。当時は徴兵週間(ドラフト・ウィーク、Draft Week)と呼ばれていた[1]。発端は、その年の3月に連邦議会で可決された徴兵法(英語: Enrollment Act)に対して白人労働者の不満が頂点に達して起きたものであるが、同時にかねてより存在していた奴隷制度廃止運動への反感および黒人に対する差別感情にも火がつき、人種暴動(race riot)の様相も呈した。また、暴徒の多くはアイルランド系の労働者階級の者たちだったという特徴もあった。
ニューヨーク徴兵暴動 | |||
---|---|---|---|
武装した暴徒と北軍兵士が武力衝突した場面を描いたイラストレイテド・ロンドン・ニュース紙のイラスト | |||
日時 | 1863年7月13日 (1863-07-13) – 1863年7月16日 (1863-7-16) | ||
場所 | アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン | ||
原因 | |||
結果 | 暴動の鎮圧 | ||
参加集団 | |||
| |||
死傷者数 | |||
死者 | 119ないし120人(諸説あり) | ||
負傷者 | (最低)2,000人 |
1863年は1月に共和党のエイブラハム・リンカーン大統領によって正式に奴隷解放宣言がなされ、3月に連邦議会で初の徴兵法が可決された年であった。奴隷解放宣言はニューヨークに黒人労働者を呼び込むと既存の白人労働者に憂慮された。また徴兵法は多くの移民を市民権と引き換えに徴兵対象に含める一方で、黒人は市民とみなされないために対象外であり、白人の富裕層は大金を支払うことで徴兵を回避できた。また、市民の4分の1を占めるアイルランド系移民は伝統的にニューヨークに地盤のあった民主党を支持し、過去のノウ・ナッシングから共和党には不信感を持っていた。こうしてアイルランド系移民が多かったニューヨークの白人労働者の不満と怒りはゲティスバーグの戦い直後の7月半ばに始まった徴兵業務に際して頂点に達した。
当初、暴動は徴兵令に対する怒りを表すためのものであったが、抗議行動は人種憎悪に発展して白人の暴徒が黒人を襲い始め、街中で暴行事件が頻発した。これを受けてリンカーンは、ゲティスバーグの戦い直後の民兵と志願兵からなるいくつかの連隊を暴徒鎮圧のためにペンシルベニア州から引き上げさせ、ニューヨークに派遣することを決めた。しかし、それら主力が到着するには数日を要し、その間に暴徒は多くの公共施設、2つのプロテスタント教会、様々な奴隷廃止論者や賛同者の家、多くの黒人住宅、44丁目・5番街にあった黒人孤児院(英語版)を略奪や破壊し、焼き討ちした。暴動発生翌日に800人ほどの手勢を率いて現地にやってきた東部方面軍司令官ジョン・E・ウール(英語版)将軍が「戒厳令を宣言すべきだが、私にはそれを執行するに十分な部隊を持っていない」と述べたほどであった。
暴動発生から4日目の16日に連邦軍や州の民兵が到着し暴動は鎮圧された。正確な死者数は不明だが、一説に119人ないし120人であり、公式には少なくとも2000人が負傷、物的損害は最低でも約100万ドル(2020年現在で約1690万ドル相当)に上った。加えて、この地域の人口構成は変わり、多くの黒人住居者らはマンハッタンからブルックリンに移り住んだ。一方、暴徒たちの主力であったアイルランド人コミュニティの世評も著しく貶められることとなった。また、暴徒鎮圧のために多くの軍隊を戦場から引き上げねばならなかったことは、ゲティスバーグで敗北直後の南軍を大いに利すことにも繋がった。この暴動はアメリカ史上最大の市民運動であると同時に、最も人種差別的な都市騒乱であったとも評される。