ナルヴァの戦い (1944年)
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ナルヴァの戦い(エストニア語: Narva lahing、独: Schlacht bei Narva露: Битва за Нарву)とは、ドイツ国防軍ナルヴァ軍集団とソビエト赤軍レニングラード方面軍との間でナルヴァ地峡をめぐり、1944年2月3日から8月10日まで行われた戦いのことである。
ナルヴァの戦い(第二次世界大戦) | |
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ナルヴァ川を挟んで建つイヴァンゴロド(ロシア)の要塞(右の建物)とナルヴァ(エストニア)のヘルマン城(左の建物) | |
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦) | |
年月日:1944年2月2日 - 8月10日 | |
場所:エストニア、 ナルヴァ | |
結果:ドイツ国防軍の防衛成功 | |
交戦勢力 | |
ドイツ エストニア 第20SS武装擲弾兵師団 |
ソ連 |
指導者・指揮官 | |
ヨハネス・フリースナー フェリックス・シュタイナー |
レオニード・ゴヴォロフ イワン・フェジュニンスキー |
戦力 | |
将兵123,541名[1] 戦車32両[2] 航空機137機[1] |
将兵200,000名[3][2] 突撃2,500両 戦車100両[4] 航空機800機[1] |
損害 | |
戦死・行方不明14,000名 負傷・戦病54,000名 |
戦死・行方不明100,000名 負傷・戦病380,000名 戦車300両 航空機230機[2] |
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戦いは東部戦線北部地域で行われ、主要な段階はナルヴァ橋頭堡の戦い(英語版)[5]とタンネンベルク線の戦い(英語版)[6]の二つに分けられる。ソビエト赤軍によるキンギゼップ・グドフ攻勢(en)、ナルヴァ攻勢(2月15日-28日、3月1日-4日、3月18日-24日)は1944年、ソビエト赤軍による春の攻勢の一部であり[7]、ヨシフ・スターリンの「広域戦略」に基づき、これらはドニエプル・カルパチアン攻勢と同時に行われた[7]。
1944年1月、ソビエト赤軍によるレニングラード・ノヴゴロド攻勢を継続したエストニア攻略作戦は戦線を西にナルヴァへと押し戻し、エストニア内に深い突出部を形成することを狙っていた。2月、赤軍はナルヴァ川対岸でいくつかの橋頭堡を確保した。しかし、橋頭堡の確保には成功したものの、その拡大とドイツナルヴァ軍集団の包囲殲滅には失敗していた。3月初旬、ドイツ軍は反撃を開始、ナルヴァ北側の橋頭堡の殲滅に成功、南側の橋頭堡にも多大な損害を与えた。その後、戦線はナルヴァ川で落ち着きを見せたが、ソビエト赤軍によるタンネンベルク線の戦いの後続戦となる1944年夏秋攻撃作戦の一部であるナルヴァ攻勢が7月に開始、同時にリヴォフ・サンドミエシュ攻略作戦も開始された。ナルヴァ攻勢により、ソビエト赤軍はナルヴァ奪取に成功、ドイツ軍はナルヴァから16Km南のSinimäedにある三つの丘に構築されていたタンネンベルク線へ撤退せざるを得なくなった。ドイツ軍はタンネンベルク線の戦いに引き続き、防衛線で戦いを重ねた。
ヨシフ・スターリンの考える最重要目標であった、エストニアを迅速に占領することにより空軍基地を確保し、フィンランドに対する海上輸送攻撃を行うこと、そしてプロイセン東部へ進撃することは成し遂げられなかった。長期にわたるドイツ軍の防衛戦の結果、バルト海沿岸におけるソビエト赤軍の進撃は7ヵ月半に亘って阻止された。
この戦いにおいてはドイツ人以外の義勇兵、および地元エストニアの徴集兵がドイツ軍の一部として戦いに参加した。エストニアの抵抗組織(エストニア共和国全国委員会)は、ドイツによる違法な徴兵に対して支持を与えることにより、国軍を再編成し、ソ連からの独立を勝ち取ることを望んでいた。