ティプー・スルターン
インドの君主 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ティプー・スルターン[1](ウルドゥー語: ٹیپو سلطان, カンナダ語: ಟಿಪ್ಪು ಸುಲ್ತಾನ್, テルグ語: టిప్పు సుల్తాన్, タミル語: திப்பு சுல்தான், マラヤーラム語: ടിപ്പു സുൽത്താൻ, 英語: Tipu Sultan, 1749年以降 1753年以前 - 1799年5月4日)は、南インドのマイソール王国の軍総司令官(ダラヴァーイー)、首席大臣(サルヴァーディカーリー)、君主(スルターン、在位:1786年あるいは1797年 - 1799年)。王国のイスラーム政権マイソール・スルターン朝の支配者(在位:1782年 - 1799年)。ナワーブ・ティプー・スルターン・バハードゥル(Nawab Tipu Sultan Bahadur)とも呼ばれる。
ティプー・スルターン ٹیپو سلطان | |
---|---|
マイソール王 | |
ティプー・スルターン | |
在位 | 1797年(1786年) - 1799年 |
別号 |
サルヴァーディカーリー ダラヴァーイー スルターン パードシャー ワッラーー・カドル ナシーブ・ウッダウラ |
全名 | ファトフ・アリー・ハーン |
出生 |
1750年頃 マイソール王国、デーヴァナハッリ (ユースファーバード) |
死去 |
1799年5月4日 マイソール王国、シュリーランガパトナ |
埋葬 | シュリーランガパトナ、ラール・バーグ |
配偶者 | スルターン・ベーグム |
パードシャー・ベーグム | |
子女 |
16人の息子と4人の娘 (下記参照) |
王朝 | マイソール・スルターン朝 |
父親 | ハイダル・アリー |
宗教 | イスラーム教 |
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18世紀にイギリスがインドを侵略する中、ティプー・スルターンは南インドにおいて反英闘争にその一生を費やし、「マイソールの虎(Tiger of Mysore)」と畏怖された。その治世、1786年に自らパードシャーの称号を称し、1797年にはヒンドゥー王朝のオデヤ朝を廃するなど、イスラームの正統君主を意識した行動をとった。また、彼はイギリスに対抗するため、オスマン帝国やフランスといった諸外国とも連携を取るなど、世界に対しても非常に幅広い目を持った人物でもあった。
1799年、ティプー・スルターンは第四次マイソール戦争において、最後までイギリスに妥協することなく戦い、王都シュリーランガパトナの総攻撃により死亡した。死後、彼に廃されたヒンドゥーのオデヤ朝が復活し、クリシュナ・ラージャ3世がその後継となった[2]。