チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル
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「チャイコフスキー団」とは異なります。 |
ピョートル・チャイコフスキーとベリャーエフ・サークルと呼ばれる作曲家集団は1887年からチャイコフスキーが没する1893年まで関係を保ち、この関係性は彼ら自身の音楽全般に影響を与えるのみならず、続く世代のロシアの作曲家たちが方向性を定めるにあたっても幾ばくかの役割を果たした。サークルの名前の由来は材木商のミトロファン・ベリャーエフである。ベリャーエフはアマチュアの音楽家であったが、アレクサンドル・グラズノフの作品に興味を引かれて以降は音楽のパトロンとして影響力を持ち、出版業にも携わった。チャイコフスキーは1887年にはロシアの主導的作曲家のひとりとして確固たる地位を築いていた。ロシア皇帝アレクサンドル3世の寵愛を受け、国の至宝として広く認められていたのである。彼は指揮者としてロシアや西ヨーロッパで客演し、1890年にはアメリカ合衆国でも指揮台に上っている。対照的にベリャーエフ・サークルに先行する形で愛国的作曲家グループとして知られたロシア5人組の栄華は過ぎ去っており、一団が散り散りになって久しかった。5人組の中で引き続き作曲家として精力的に活動し続けていたのはニコライ・リムスキー=コルサコフただひとりだったのである。サンクトペテルブルク音楽院の教授として作曲と管弦楽法の講義で教鞭を執るうちに、リムスキー=コルサコフはかつて5人組が認めようとしなかった西欧流の作曲訓練を固く信奉するようになっていた。
ベリャーエフ・サークルを率いる作曲家であるグラズノフ、アナトーリ・リャードフ、リムスキー=コルサコフとともに過ごした結果、チャイコフスキーがかつて5人組との間に抱えていた少々悩ましい関係性はより親和的な関わりの中へと最終的に混ざり合わさっていくことになる。これらの人物との親交によりチャイコフスキーは作曲家としての自らの力量へ自信を深め、一方彼の音楽がグラズノフに愛国者の課題を超えた先へと芸術観を広げさせ、より普遍的な主題に沿って作曲をさせた。この影響が現れた交響曲第3番は彼の作品中でも「反5人組」交響曲として知られるようになり、チャイコフスキーの後期交響曲とは様式的に複数の共通点を持っている[1]。大きな影響を受けたのはグラズノフだけではなかった。リムスキー=コルサコフがベリャーエフ・サークルの作曲家について記した「チャイコフスキー崇拝と(中略)折衷主義へ向かう傾向」がこの時期に優勢となってきており、チャイコフスキーの後期オペラ『スペードの女王』と『イオランタ』に典型的に表れている「ウィッグとファージンゲールの時代[注 1]のイタリア=フランス音楽[2]」への偏向も幅を利かせるようになっていた。
長きにわたってチャイコフスキーがベリャーエフ・サークルに与える影響は決して大きなものではなかった。彼らは5人組に比べて音楽に対して折衷的なアプローチを取り、絶対音楽に重きを置いてはいたものの、全体的な様式感はチャイコフスキーよりもリムスキー=コルサコフに類似したものであり続けた。グラズノフですら円熟期の作品ではチャイコフスキーを強く反映するところからは遠ざかり、代わりに愛国的な様式と万国的な様式を折衷する形で融合させていった。ベリャーエフ一派の作曲家も総体としてはロシアに愛国的な音楽観を伝播させていったのであり、彼ら自身もソビエト時代までの作曲家に影響を及ぼした。