タタマガッチ沖の海戦
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タタマガッチ沖の戦い(タタマガッチおきのたたかい、英: Naval Battle off Tatamagouche)または1745年6月15日の海戦は、ニューイングランドの3隻の軍艦と、1745年のルイブールの戦いの救援に向かっていた、フランスと、同盟関係のインディアンを乗せた護衛艦隊との海戦である。フランスと同盟インディアンの軍勢は、4隻からなる護衛艦隊と50隻のカヌーに1200人の兵士を乗せていた。フランスの指揮官はポール・マリン・ド・ラ・マルグで、一方イギリスの指揮官はデヴィッド・ドナヒュウだった。
概要 タタマガッチ沖の海戦, 時 ...
タタマガッチ沖の海戦 | |||||||
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ジョージ王戦争中 | |||||||
1743年当時のアカディア(ノバスコシア)、中央部トゥルロの上にタタマガッチが見える。 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス王国 アベナキ同盟(ミクマク族、マリシート族) ヒューロン族 | グレートブリテン王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
ポール・マリン・ド・ラ・マルグ |
デヴィッド・ドナヒュー ダニエル・フォーンズ ロバート・ベケット | ||||||
戦力 | |||||||
フランス兵500、アベナキ同盟(ミクマク族とマリシート族)とヒューロン族 (P16のポートの記述によれば200、P17ドナヒュウの証言によれば1000)[1] スクーナー船2 スループ船2 カヌー50、1隻につきインディアン14人が乗船[1][2] |
イギリス兵175以上 軍艦4 | ||||||
被害者数 | |||||||
フランスとインディアンの同盟軍[1] | なし | ||||||
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この時のニューイングランド軍の戦況は好調で、ロワイヤル島の総督ルイ・デュポン・デュシャボンは、マリンの到着の前に、ニューイングランド軍がルイブールで戦闘を起こすと見ていた(当時、ルイブールのニューイングランド軍4200人に対してフランス軍は1800人しかいなかった)[3][4]。しかしその翌日、ニューイングランド軍は「戦闘を起こす」どころか、ルイブールでフランスを叩きのめしてしまった[5]。