ソビエト連邦によるポーランド侵攻
ソビエト連邦によるポーランドへの軍事侵攻 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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この項目では、ソビエト連邦による1939年のポーランド侵攻について説明しています。総記的な内容については「ポーランド侵攻」をご覧ください。 |
ソビエト連邦によるポーランド侵攻(ソビエトれんぽうによるポーランドしんこう)は、宣戦布告がないまま開始された軍事作戦であった。
ソビエト連邦によるポーランド侵攻 | |||||||||
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第二次世界大戦ポーランド侵攻中 | |||||||||
ソ連軍パレード(リヴィウ、1939年) | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
ポーランド | ソビエト連邦 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
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戦力 | |||||||||
ポーランド国境防衛隊 20,000[1][Note 1] ポーランド陸軍 250,000[2][Note 2] |
兵力 466,516–800,000[2][3] 師団 33+ 旅団 11+ 火砲 4,959 戦車 4,736 航空機 3,300 | ||||||||
被害者数 | |||||||||
戦死・行方不明 3,000–7,000人[1][4] 負傷 20,000人以下[1][Note 3] 捕虜 99,149人[5]:85 |
戦死、行方不明 1,475–3,000人 負傷 2,383–10,000人[Note 4] |
1939年9月17日、ソビエト連邦はポーランド東部に侵攻を開始した。これはドイツがポーランド西部に侵入してから16日後のことだった。軍事作戦はこの日から20日間続き、1939年10月6日に終結した。結果としてポーランド第二共和国の全領土が分割され、それぞれドイツとソ連に併合されることとなった[7]。この共同したポーランド侵攻は、1939年8月23日に調印されたモロトフ=リッベントロップ協定のもと秘密裏に両国で同意がなされていた[8]。国土を守るポーランド軍をはるかに数で上回る赤軍は、戦略的・戦術的な欺きによってその目標を達成した。戦闘によって捕虜となったポーランド人は230,000人余りにのぼり[4][9]、ソ連が新たに獲得した地域では間をおかずに大規模な迫害が始まった。1939年11月、ソビエト政府は掌握したポーランドの全地域を表面上ソ連に併合した。軍事占領下におかれた1,350万人余りのポーランド国民は、ソ連内務人民委員部(НКВД / NKVD)の秘密警察の恐怖下で行われた擬似選挙を経て、ソビエト連邦の新たな市民へとつくり変えられた[10][11]。その結果として実現したのは、実力行使の合法化であった。ターゲットとなったポーランドの軍や警察、宗教における重要人物は次々と逮捕され、裁判を経ることなく処刑されていくなど、さまざまな形でソ連の抑圧的な政策がすすめられた[Note 5][12][13]。1939年から1941年にかけて大きく4つに時期はわかれるが、ソ連のNKVDは何十万人という人々をポーランド東部からシベリアなどの辺境へと追放した[Note 6]。1941年の夏までポーランド東部を占領していたソ連軍はバルバロッサ作戦の過程でドイツ軍に駆逐され、1944年夏にソ連がこの地を取り戻すまではドイツの占領下であった。ヤルタ会談での合意により、ソビエト連邦はモロトフ=リッベントロップ協定のもと自国に分割されたポーランド第二共和国のほぼ全領土を併合することが認められ、ポーランド人民共和国に東プロイセンの南半分とオーデル・ナイセ線の東側を割譲させた[16]。ソビエト連邦は、併合した土地のほとんどをウクライナ・ソビエト社会主義共和国とベラルーシ・ソビエト社会主義共和国に組み込んだ[16]。ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が終結すると、ソビエト連邦は1945年8月16日に自国の傀儡政権であるポーランド国民解放委員会と新たな国境条約を結んだ。この条約は現在の国境を2国間の新しい国境線とするものであったが、例外的にベラルーシ一帯とプシェムィシル周辺のサン川東部にあたるガリツィアの一部は後にポーランドに返還された[17]。