スラヴ人トマス
9世紀のビザンツ帝国の将軍 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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スラヴ人トマス(スラヴじんトマス、ギリシア語: Θωμᾶς ὁ Σλάβος、Thōmas ho Slavos、760年頃 - 823年10月)は、9世紀のビザンツ帝国の将軍。821年から823年にかけてビザンツ皇帝ミカエル2世(在位:820年-829年)に対して大規模な反乱を起こした。
スラヴ人トマス | |
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ヨハネス・スキュリツェスの年代記の『マドリード・スキュリツェス(英語版)(Madrid Skylitzes)』 版の細密画に描かれたトマス。騎乗しビザンツ皇帝の衣装を纏ってアラブ人と交渉している。トマスの反乱は同年代記において最も豪華な挿絵をつけて描かれたエピソードの1つである[1]。 | |
生誕 | 760年頃 Gaziura |
死没 | 823年 アルカディオポリス(英語版) |
所属組織 | ビザンツ帝国軍(英語版) |
軍歴 | 803年-820年 |
最終階級 | トゥルマルケス(英語版)(tourmarches) |
ポントス地方(トルコ北西部)のスラヴ人に出自を持つ軍人であったとされるトマスは、将軍バルダネス・トゥルクス(英語版)(トルコ人バルダネス[注釈 1])の庇護の下でミカエル(2世)やアルメニア人レオン(5世、在位:813年-820年)と共に頭角を現した。803年のバルダネスの反乱失敗からレオン5世の治世中に小アジアの上級司令官に抜擢されるまでの間、トマスの動向は不明瞭となる。ミカエル2世がレオン5世を殺害し帝位を簒奪すると、トマスは自らの帝位を主張して反乱を起こした。トマスは速やかに大半のテマ(地方)と小アジアの軍団の支持を取り付けてミカエル2世の最初の反撃を打ち破り、さらにアッバース朝との同盟を締結した。そして「海のテマ」とその艦隊に勝利を収めた後、軍団と共にヨーロッパへ渡り、コンスタンティノープルを包囲した。トマスは帝都コンスタンティノープルを陸上と海上から攻撃したが陥落させることができず、その間にミカエル2世はブルガリア帝国の支配者(ハーン)オムルタグの支援を求めた。トマスはオムルタグの攻撃を撃退したが多大な損失を出し、数ヶ月後にミカエル2世が野戦に打って出た際には撃破され逃亡を余儀なくされた。トマスと彼の支持者たちはアルカディオポリス(英語版)に避難したが、間もなくそこでミカエル2世の軍に包囲された。結局、トマスの支持者たちは恩赦と引き換えにミカエル2世に降伏し、トマスは処刑された。
トマスの反乱はビザンツ帝国史上最大の反乱の1つであるが、歴史的記録にミカエル2世が反逆者トマスの名前を貶めるために創り出した情報が含まれているために相互に矛盾した物語が残されており、その正確な経過は不透明である。この結果、トマス本人や彼の支持者たちが反乱を起こした動機や背景について様々に論じられてきた。『オックスフォード・ビザンツ事典(英語版)』は「トマスの反乱は、聖像破壊運動、社会革命と民衆の蜂起、帝国に対する非ギリシア(英語版)系エスニック・グループの反乱、トマスの個人的野心とレオン5世殺害に対する復讐心など、様々な要因に対する反応に起因している。」とまとめている[1]。また、この反乱が帝国の軍事的地位に及ぼした影響、とりわけ相対するアラブ人に対するそれについても議論されている。