ジェイムズ・マクリアリー
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ジェイムズ・ベネット・マクリアリー(英: James Bennett McCreary、1838年7月8日 - 1918年10月8日)は、19世紀後半から20世紀初めのアメリカ合衆国ケンタッキー州出身の政治家、弁護士である。ケンタッキー州を代表してアメリカ合衆国議会上下両院の議員となり、1875年から1879年まで第27代、1911年から1915年まで第37代と2回ケンタッキー州知事を務めた。
ジェイムズ・マクリアリー | |
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第37代 ケンタッキー州知事 | |
任期 1911年12月12日 – 1915年12月7日 | |
副知事 | エドワード・マクダーモット |
前任者 | オーガスタス・ウィルソン |
後任者 | オーガスタス・スタンレー |
アメリカ合衆国上院議員 ケンタッキー州選出 | |
任期 1903年3月4日 – 1909年3月3日 | |
前任者 | ウィリアム・デボー |
後任者 | ウィリアム・O・ブラッドリー |
アメリカ合衆国下院議員 ケンタッキー州第8選挙区選出 | |
任期 1885年3月4日 – 1897年3月3日 | |
前任者 | フィリップ・B・トンプソン・ジュニア |
後任者 | ジョージ・M・ダビソン |
第27代 ケンタッキー州知事 | |
任期 1875年8月31日 – 1879年9月2日 | |
副知事 | ジョン・C・アンダーウッド |
前任者 | プレストン・レスリー |
後任者 | ルーク・ブラックバーン |
個人情報 | |
生誕 | ジェイムズ・ベネット・マクリアリー James Bennett McCreary (1838-07-08) 1838年7月8日 ケンタッキー州リッチモンド |
死没 | 1918年10月8日(1918-10-08)(80歳) ケンタッキー州リッチモンド |
墓地 | リッチモンド墓地 |
政党 | 民主党 |
配偶者 | キャサリン・ヒューズ |
出身校 | センター・カレッジ カンバーランド大学 |
専業 | 弁護士 |
宗教 | 長老派教会 |
兵役経験 | |
所属国 | アメリカ連合国陸軍 |
所属組織 | アメリカ連合国陸軍 |
最終階級 | 中佐 |
部隊 | ケンタッキー第11騎兵隊 |
戦闘 | 南北戦争 |
マクリアリーは法学校を卒業した直後に、南北戦争で南軍のジョン・ハント・モーガン准将に仕え、ケンタッキー第11騎兵隊唯一の少佐となった。戦後は法律実務に戻った。1869年、ケンタッキー州下院議員に選ばれ、1875年まで務めた、下院議長には2回選ばれた。1875年、ケンタッキー州民主党の指名大会でマクリアリーを知事候補に選出した。知事選挙ではマクリアリーが共和党の対抗馬ジョン・マーシャル・ハーランに対し、楽勝で当選した。この時期は州内で1873年恐慌の影響が残っている時であり、知事としての行動の大半は州内の貧しい農夫の苦境を救済することに当てられた。
1884年、マクリアリーはアメリカ合衆国下院議員に選出され、以後6期(12年間)連続して務めた。この時代は自由銀を提唱し、州の農業に関する利権を擁護する者だった。アメリカ合衆国上院議員になるチャンスを2回逃した後、州知事J・C・W・ベッカムの支持を得て、1902年に州議会でアメリカ合衆国上院議員に選ばれた。この上院議員の任期6年間はあまり傑出した業績を残せず、再選を狙った1908年にはベッカムが離反したために落選した。しかし、マクリアリーとベッカムの不仲は長くは続かず、1911年にマクリアリーがケンタッキー州知事として2期目を求めた時には、ベッカムの支持を得ることができた。
1911年州知事選挙で、マクリアリーは進歩主義の綱領で選挙運動を行い、共和党のエドワード・C・オリアを破った。この2期目では、2代目となった州知事公舎の最初の住人となった。また旧公舎と新公舎の双方に住んだ唯一の知事となった。教育委員会の委員を選ぶ選挙では、議会を説得して女性の参政権を認めさせた。直接予備選挙を義務づけ、州の公共事業委員会を創設し、州内の郡には禁酒法を採用するか否かを住民投票で独自に判断できるようにした。教育費予算をかなり増加させ、義務教育法のような改革を成立させたが、議会におけるロビー活動を規制する法や、労働者の災害補償を行う法は成立させられなかった。州知事公舎の新築を監督する5人委員会の1人となり、その建設計画にかなりの影響力を行使した。知事の任期は1916年に明け、その2年後に死んだ。2期目の間に創設されたマクリアリィ郡は、マクリアリーの栄誉を称えて名付けられた。