ギリシャの戦い
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ギリシャの戦い(ギリシャのたたかい)は、第二次世界大戦中にギリシャおよびアルバニア南部地方で起こった戦いである。戦いは連合国(ギリシャ、イギリス連邦)と枢軸国(ドイツ、イタリア、ブルガリア)の間で行われた。ギリシャの戦いは、クレタ島の戦いやいくつかの海戦ともに、第二次世界大戦におけるドイツ軍のバルカン半島攻略作戦のエーゲ海側を構成していたと考えられており、また、ギリシャの戦いは1940年10月28日より始まったギリシャ・イタリア戦争の延長と考えられている。
ギリシャの戦い | |
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ギリシャの戦いにおけるドイツ軍の動き | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1941年4月6日 - 30日 | |
場所:ギリシャ | |
結果:枢軸軍の勝利、ギリシャ占領 | |
交戦勢力 | |
枢軸国: ドイツ国 |
連合国: ギリシャ王国 イギリス ニュージーランド オーストラリア |
指導者・指揮官 | |
ヴィルヘルム・リスト マクシミリアン・フォン・ヴァイクス ルドルフ・ファイエル(英語版) ヨーゼフ・ディートリヒ ウーゴ・カヴァッレーロ エミリオ・ジグリオーリ |
アレクサンドロス・パパゴス アレクサンドロス・サケラリオウ ヘンリー・メイトランド・ウィルソン(英語版) バーナード・フレイバーグ トーマス・ブレーミー(英語版) |
戦力 | |
ドイツ軍[1] 将兵680,000名 戦車1,200両 航空機700機 イタリア軍[2] 将兵565,000名[注 1] |
ギリシャ軍[5] 将兵430,000名 イギリス連邦軍[6] 将兵62,612名 戦車100両 航空機200〜300機[注 2] |
損害 | |
ドイツ軍[7] 戦死1,099名 負傷3,752名 行方不明385名 イタリア軍[8] 戦死13,755名 負傷63,142名 行方不明25,067名 |
ギリシャ軍[8] 戦死13,325名 負傷62,663名 行方不明1,290名 イギリス連邦軍[6] 戦死903名 負傷1,250名 捕虜13,958名 |
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戦争の前半となるギリシャ・イタリア戦争において、イタリア軍はギリシャ軍に数週間で撃退され、反対にアルバニアの南部をギリシャに奪われる形になった。イタリアは1941年3月、ギリシャへ大規模な反撃を加えたがこれも撃退されたため、ドイツはこれを支援せざるを得なくなった。1941年4月6日、ドイツ軍がブルガリアを経由してギリシャに侵攻し、その南側を占領することを目的にしたマリータ作戦(Unternehmen Marita)が発動された。ギリシャ軍、イギリス連邦軍は粘り強い反撃を行ったが、ドイツ軍の圧倒的な攻勢の前に崩された。アテネは4月27日に陥落したが、イギリス連邦軍は辛くも約50,000名の将兵を脱出させることに成功した。ギリシャ侵攻作戦はペロポネソス地方のカラマタ陥落で素早い進撃を見せたドイツ軍の完勝に終わり、作戦も24日以内で終了した。
ドイツ軍、連合軍内部でギリシャ将兵の粘り強い抵抗には賞賛の声があがった。特に歴史家の一部はドイツのギリシャ侵攻作戦により、ドイツはソ連侵攻を延期せざるを得なくなったが、それは致命的なことであったと主張している[9]。しかしソ連侵攻作戦に影響がないとする歴史家は、ソ連侵攻作戦の発動には影響はなく、むしろイギリスによるギリシャへの干渉は無謀な企てであり、「政治的感傷的決定」もしくは「戦略的な大失敗」であったと主張している[10]。当事者であるイギリス国内でも介入の価値を巡って議論が行われたが、1952年に内閣官房の歴史担当部署によって対ソ戦への影響はなかったと結論付けられている[11]。
他にソ連侵攻の実行責任者であるアドルフ・ヒトラーはソ連侵攻に影響があったという立場に立つ発言をしているが[12]、これは周囲に対して感情的に発した言葉であり、客観的な証拠を伴っていない事が大半の歴史家によって指摘されている。ヒトラーは自身の敗北責任をかつての同盟国(当時、イタリアは親独派と反独派に分離していた)に押し付けていた[13]。