オードリー・ヘプバーン
イギリスの女優 (1929-1993) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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この項目では、イギリス人の女優について説明しています。彼女を基にした2022年5月6日に劇場公開された同名のドキュメンタリー映画については「オードリー・ヘプバーン (映画)」をご覧ください。 |
オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人女優。ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。
オードリー・ヘプバーン Audrey Hepburn | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1956年のヘプバーン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本名 | オードリー・キャスリーン・ヘプバーン=ラストン(英: Audrey Kathleen Hepburn-Ruston)[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | (1929-05-04) 1929年5月4日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没年月日 | (1993-01-20) 1993年1月20日(63歳没) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | ベルギー ブリュッセル・イクセル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
死没地 | スイス ヴォー州 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イギリス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 170cm[2] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャンル | 映画、舞台、テレビドラマ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1948年 - 1989年(女優) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 |
メル・ファーラー(1954年 - 1968年) アンドレア・ドッティ(1969年 - 1982年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著名な家族 |
息子:ショーン・ヘプバーン・ファーラー(1960年生) 息子:ルカ・ドッティ(1970年生) 孫:エマ・ファーラー(1994年生) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『ローマの休日』(1953年) 『麗しのサブリナ』(1954年) 『パリの恋人』(1957年) 『昼下りの情事』(1957年) 『ティファニーで朝食を』(1961年) 『シャレード』(1963年) 『マイ・フェア・レディ』(1964年) 『おしゃれ泥棒』(1966年) 『いつも2人で』(1967年) 『暗くなるまで待って』(1967年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaをEddaとした)持たせた偽名である[6]。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル(英語版)のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。
イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌでトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。
70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した[7][8][9]。