ウルグアイ戦争
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ウルグアイ戦争(ウルグアイせんそう、スペイン語: Guerra del Uruguay、ポルトガル語: Guerra do Uruguai。1864年10月10日-1865年2月20日)は、ウルグアイの与党ブランコ党と、ブラジル帝国及びウルグアイのコロラド党の同盟との間の戦争。アルゼンチンは秘密裏に同盟側を支持した。ウルグアイでは独立以来、コロラド党とブランコ党の紛争が断続的に続いており、1863年にはコロラド党首ベナンシオ・フローレス(英語版)が解放十字軍(スペイン語版)をおこして、コロラド=ブランコ連立政府(「フシオニスタ(スペイン語版)」(fusionista、「融合派」の意味))のベルナルド・ベロ(英語版)大統領を失脚させようとした。アルゼンチン大統領バルトロメ・ミトレ(英語版)はフローレスに補給、志願兵、河川での兵員輸送などの援助を提供した。
ウルグアイ戦争 | |
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パイサンドゥー包囲戦(英語版)、イリュストラシオン紙より、1865年。 | |
戦争:ウルグアイ戦争 | |
年月日:1864年8月10日 - 1865年2月20日 | |
場所:ウルグアイ、ブラジル帝国 | |
結果:ブラジルとコロラド党の勝利、三国同盟戦争の勃発 | |
交戦勢力 | |
ブラジル帝国 コロラド党 統一党(英語版) アルゼンチン(秘密裏に支援) |
ウルグアイ ブランコ党 連邦党(英語版) |
指導者・指揮官 | |
ペドロ2世 タマンダレ侯爵(英語版) サン・ガブリエル男爵(ポルトガル語版) ベナンシオ・フローレス(英語版) バルトロメ・ミトレ(英語版) |
ベルナルド・ベロ(英語版) アタナシオ・アギレ(英語版) レアンドロ・ゴメス(英語版) |
コロラド党が連立から離脱してフローレスと合流すると、フシオニスタ運動は崩壊した。ウルグアイ内戦はすぐに国際危機に発展し、地域を一気に不安定にした。フシオニスタ政府内のブランコ党員はコロラド党の反乱以前でも、パラグアイの独裁者フランシスコ・ソラーノ・ロペスとの同盟を模索したことがあった。コロラド党の離脱によりブランコ党が単独与党になると、ミトレとその統一党(英語版)に反対するアルゼンチンの連邦党(英語版)はブランコ党の政府を支持した。ブラジル帝国も紛争に巻き込まれたことで、情勢がさらに悪化した。ウルグアイでは国民の5分の1がブラジル人とされ、その一部ではブランコ党政府の政策が自身に不利であるとして、フローレスの反乱に参加する動きがあった。やがて、ブラジルは南部国境の安定化、並びに地域における優勢を維持するために介入を決定した。
1864年4月、ブラジルは全権委員のジョゼ・アントニオ・サライヴァ(英語版)を派遣して、ベロの後任であるアタナシオ・アギレ(英語版)と交渉した。最初、サライヴァはブランコ党とコロラド党の紛争を解決しようとした。しかし、アギレがフローレスの要求に対して全く妥協しない態度をとったため、サライヴァは諦めてコロラド党に味方した。1864年8月10日、ブラジルの最後通牒が拒絶されると、サライヴァはブラジル軍が報復を開始すると宣言した。しかし、ブラジルが正式な戦争状態にあることを認めなかったため、ブラジルとウルグアイの武装衝突は宣戦布告なき戦争(英語版)として始まった(ブラジルは1865年1月に宣戦布告した)。
ブラジルとコロラド党の連合軍はブランコ党の拠点を攻撃するためにウルグアイを進軍、各地の町を次々と落とした。やがて、ブランコ党は首都モンテビデオで孤立した。敗北が確実になったため、ブランコ党の政府は1865年2月20日に降伏した。この時点ではブラジルとアルゼンチンの大きな成功といえたが、パラグアイがブランコ党を支持して介入、ブラジルとアルゼンチンを攻撃して泥沼の三国同盟戦争に引きずり込んだ。