ウィリアム・ステイシー
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ウィリアム・ステイシー(英: William Stacy、1734年2月15日 - 1802年8月)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州出身で、アメリカ独立戦争の時には大陸軍の士官、戦後はオハイオ領土のパイオニアだった。歴史書に拠ると、戦中にステイシーが関わった様々な出来事が記されている。例えば、マサチューセッツのビレッジ・コモンで民兵隊を招集したこと、ボストン包囲戦に参加したこと、チェリーバレー虐殺の時にロイヤリストとインディアンの捕虜になり、火あぶりになるところを辛うじて免れたこと、ジョージ・ワシントン将軍の努力で捕虜から解放されたこと、終戦のときにワシントンから金の嗅ぎ煙草入れを贈られたことなどである。
概要 ウィリアム・ステイシーWilliam Stacy, 生誕 ...
ウィリアム・ステイシー William Stacy | |
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生誕 | (1734-02-15) 1734年2月15日 マサチューセッツ州グロスター |
死没 | 1802年8月(満68歳没) オハイオ州マリエッタ |
墓所 | マウンド墓地(オハイオ州マリエッタ) |
所属組織 | アメリカ合衆国 |
部門 | 大陸軍 |
最終階級 | 中佐 |
戦闘 | アメリカ独立戦争 |
親族 | サラ・デイ 1754年-1790年 ハンナ・シェフィールド 1790年-1802年 |
他職業 | オハイオ領土のパイオニア |
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独立戦争が終わった後の時代、ステイシーはパイオニアとなり、新生アメリカ合衆国の北西部領土ではアメリカ人による最初の恒久的な開拓地、現在のオハイオ州マリエッタの設立に貢献した。マリエッタのパイオニア社会で活動し、北西部領土で最初の大陪審では陪審員長を務め、領土内の法の支配を確立した。56歳の時に、スケートを履いて凍った川を30マイル (50 km) 登り、息子の2人にインディアンから攻撃の可能性があることを伝えた。実際にその数日後にビッグボトム虐殺が起こり、北西インディアン戦争が始まることになった。
ステイシーの姓の綴りは、"Stacey"、 "Stacia"、"Stacie" と様々にあるが、正しくは "Stacy" である。最後の階級である中佐 (英: lieutenant colonel) を省略して、カーネル・ステイシー (英: Colonel Stacy) と呼ばれることも多い。