イベリア王国のキリスト教化
ウィキペディア フリーな encyclopedia
イベリア王国のキリスト教化(グルジア語: ქართლის გაქრისტიანება)[注 1]では、4世紀初頭のイベリア王国にて聖ニノの説教によるキリスト教の広がりについて概説する。東ローマ帝国の教会史家・ソゾメノスは、グルジア人は多神教徒であり、「カルトリの神々」として知られている人型の偶像を長い間崇拝していたため[1]、この出来事は国王が「広大であり、好戦的で野蛮な国がキリストを認め、自身らの先祖が信仰していた宗教を放棄する」ことを導いたと記している[2]。国王が布教の全過程において主要な支援者や創案者、主唱者であり、組織力となっていたと考えられている[3]。コンスタンティノープルのソクラテスは「イベリア人は最も早くキリスト教を受容した」と記しているものの[4]、イベリア王国は南部の隣国であったアルメニア王国に次いで2番目に受容した国であると考えられている[5]。アルメニアとグルジアの君主は世界で最初にキリスト教に改宗した人物の1人であった[6]。アルメニアとグルジアの間で教会の敵対心のエスカレートや[7]キリスト論での論争が起きる前までは、コーカサスのキリスト教は非常に包括的・多元的で柔軟であり、硬直した教会論的階級制度が確立されたのはかなり後、特に6世紀から「国の」教会として具体化したときであった[8]。コーカサス地方は古代末期において、グルジア人とアルメニア人が1つの文明内で共存するのが困難なほどユーラシアの中で最も活発で国際的な地域であり[9]、途方もないほどに多様性があったのにもかかわらず、キリスト教化は地方全体の異文化間で起きた現象であった[10]。イベリア王国の首都であったムツヘタに住むユダヤ人は王国のキリスト教化において重要な役割を果たし、グルジアの君主と聖地(英語版)とのつながりを深める原動力となったことで、ユダヤ砂漠で発見された最古のグルジア語の碑文であるビール・エル・クット碑文を含め、イベリアのペトルの活動で確認されるようにパレスチナに住むグルジア人が増加した[11][12]。
イベリア王国は近隣の「イラン連邦」と多くの制度を共有し、商業や移住、戦争、結婚などで物理的に繋がっていた[13]。また、ヘレニズム時代の建造物から王冠の変更にまで[14]、建築や芸術にアケメネス朝の文化が根ざした[15]、5世紀から7世紀全体をかけて[16]完成させた新しい多段階の改革に着手したことで[17][18]、強力なグルジア独特の文化が出現した[19]。
歴史的なキリスト教化の日の前夜に、イランとギリシアの文化を物理的に融合した外国人である聖ニノ[20]や同じく外国人であった2人のカルトリの初代大司教、コンスタンティヌス1世によって送られたギリシャ人によって[21]、王と王妃はグルジアに馴染んだ外国人へと変化した[22]。
6世紀前半に限り、グルジア人が教会の最高地位を占有したものの、イラン人やアルメニア人、シリア人などといった外国人は引き続きグルジアの教会管理にて重要な役割を果たした[23]。