アーノルド・バックス
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サー・アーノルド・エドワード・トレヴァー・バックス(Sir Arnold Edward Trevor Bax, KCVO, 1883年11月8日 - 1953年10月3日)は、イギリスの作曲家、詩人、著作家。多作家であり、歌曲、合唱曲、室内楽曲、ピアノ独奏曲などに作品を残したが、最も知られるのは管弦楽曲である。一連の交響詩に加えて7曲の交響曲を書いており、一時はイギリスを代表する交響曲作家であると広く認められていた。
アーノルド・バックス Arnold Bax | |
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ハーバート・ランバート撮影、1922年 | |
基本情報 | |
生誕 |
1883年11月8日 イングランド ロンドン |
死没 |
(1953-10-03) 1953年10月3日(69歳没) アイルランド コーク |
ジャンル | クラシック |
職業 | 作曲家、詩人、著作家 |
バックスはロンドン郊外のストリーサム(英語版)で裕福な家庭に生まれた。両親の後押しにより音楽のキャリアを歩むことになり、収入があったお陰で流行や正当性にとらわれることなく自らの道を進むことが出来た。その結果、楽壇では重要人物であると同時に孤立した人物であると看做されるようになる。まだ王立音楽アカデミーの学生であった頃にアイルランドとケルトの文化に魅せられ、若い頃の成長過程で強い影響を受けた。第一次世界大戦以前からアイルランドに居住するようになり、ダブリンの文学サークルの一員となると、ダーモット・オバーン(Dermot O'Byrne)という筆名を用いて小説や韻文を著した。後年、彼は北欧文化への愛着を募らせ、第一次大戦後の一時期にはケルト文化の影響に取って代わったほどだった。
1910年から1920年にかけて、バックスは最も知られる作品である交響詩『ティンタジェル』など数多くの音楽作品を生み出した。この時期には生涯続くことになるハリエット・コーエンとの関係が始まっており、はじめは愛人として、後には友人として、常にプロとして近しい間柄を保っていた。1920年代には、彼の管弦楽作品の中心的位置を占める7曲の交響曲群に着手している。1942年には国王の音楽師範に任命されるが、この立場で作曲した作品は数少ない。晩年には自分の音楽が時代遅れ扱いされていることを本人も自覚しており、死後にはほとんど忘れられた状態となった。1960年代以降、主に商業用録音の増加に伴って、その音楽が次第に再発見されてきているが、定期的に実演の機会を得られている作品はわずかな数に留まっている。